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京見峠 : ミニ英和和英辞書
京見峠[きょうみとうげ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みやこ, きょう, けい]
 【名詞】 1. capital 2. metropolis
: [とうげ]
  1. (n,n-suf) ridge 2. (mountain) pass 3. difficult part 

京見峠 : ウィキペディア日本語版
京見峠[きょうみとうげ]

京見峠(きょうみとうげ)は、京都市北区にあるである。
== 概要 ==

長坂峠(ながさかとうげ)とも呼ばれる〔長坂峠は、氷室道との分岐箇所、「氷室別れ」三叉路付近とされることもある〕。京都府道31号西陣杉坂線(長坂)上に位置する、標高446mの峠である。西賀茂鑓磨岩(にしがもやりとぎいわ)と大宮釈迦谷とを隔てている。若狭国方面から上洛する際、最初に京の街を見下ろすことができた峠として知られており、そこからこの名がついたという〔京都鴨川風光
*京見峠

軍記物語『太平記』には、「京中を足下に見下」ろせる峠という記述があり、また「延元元年(1336年)、後醍醐天皇方の兵が、室町幕府を開いた足利尊氏らとの洛中合戦にあたり、京都への北の要所として京見峠に陣を張った」という内容の文章が記されている。また南北朝時代「北朝文和2年(1353年9月)、供御人等が毎夜多量の材木を荷担いして都へ運び、夜中売買をなし、或いは買手を官木御用地の小野山に入れて毎日伐採して数百荷を販売(盗伐販売)したと記録報告がある。さらに応仁の乱(1467年)以降、鷹峰から長坂口を経て若狭、丹波方面へ通じる戦略上の拠点とされ、城が各所に構えられ、その1つが長坂城と後にこの峠から氷室道を登ったところに別の山城が構築された。室町時代には、関所も置かれた古くからの要所であった〔昭和53年10月 京見峠歌碑建立委員会〕〔「遣其勢百余騎、白昼ニ京中ヲ打通テ、長坂ニ打上ル。(中略)千余騎、京中ヲ足ノ下ニ見下シテ、京見峠、嵐山、高雄、栂尾ニ陣ヲトル」〕。
一方、「明応年間(1492年頃)年末に「無人となっている京見峠の関に代官を派遣することを要望」する書が残っているが、この関所は峠から南へ下った堂の庭に置いた「京見峠の関」である。
中世には大徳寺の寺領となり、「普明庵」(ふみょうあん)、「寸松庵」(すんしょうあん)、「寒松庵」(かんしょうあん)と呼ばれる末寺が建ったとされる〔『ビジュアルガイド 京都の大路小路』 長坂越 (小学館、2003年)〕。
近年の「明治35年(1902年)、梅ヶ畑、中川、小野経由の周山街道新道(現国道162号線)が開通するまで、若狭街道、または山国街道、西の鯖街道ともいい若狭小浜から都、京に海産物や諸々の品を夜を徹して運んだとされ、この京見峠付近で荷駄から天秤棒の人手輸送に積み替えたといわれている。
江戸時代に創業したという一軒の茶屋の建物が峠に残っており、古くからの歴史の痕跡を今なお残している〔〔関西電力 原子力事業本部 -創刊30周年記念特別企画 鯖街道(若狭~京都) 〕が、茶屋の営業は2011年に終了しいる。
横の石碑には、京都の詩人・島岡剣石(しまおかけんせき)が、辛夷(こぶし)の花の咲く頃(3月から5月にかけて)に、この地で詠んだ歌が刻まれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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