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五大老 : ミニ英和和英辞書
五大老[ごたいろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ご]
  1. (num) five 
大老 : [たいろう]
 (n) (Edo-period) chief minister
: [ろう]
 【名詞】 1. old age 2. age 3. old people 4. the old 5. the aged 

五大老 : ウィキペディア日本語版
五大老[ごたいろう]

五大老(ごたいろう)とは、末期の豊臣政権で、太閤権力の下で関白権力に代わり国政を預かる国政機関を指す職制〔脇田修『近世封建制成立史論 織豊政権の分析Ⅱ』(東京大学出版会、1977)〕。
== 概要 ==
文禄4年(1595年)の秀次事件がもたらした政治危機を克服するため、豊臣秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条〔伝「水口藩加藤家文書」(『特別展 五大老』パンフレット所収)〕と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図った。この連署を行なった六人の有力大名、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元小早川隆景が、豊臣政権の「大老」であると、後世みなされることになった。
慶長3年(1598年)夏、死の床にあった秀吉は、嫡男・豊臣秀頼成人までの政治運営にあたっては、前記有力大名五人(既に病没していた小早川隆景を欠く)と石田三成ら豊臣家吏僚による合議制をとることを遺命した。いわゆる「五大老・五奉行」が制度化されたのである。これは秀吉自身の死後に台頭し、豊臣家と覇権を争う可能性のある家康を政権内に取り込んでしまうことにより、予め禍根を断とうとした策であった。だが、秀吉の死後、「五大老・五奉行」制度は、これを否定し崩壊させようとする家康の策謀により動揺した。
徳川家康は終始、大老内でも特段の地位を保持し続けていた。秀吉はこの家康に対抗・牽制しうる人物として、「御掟・御掟追加」発令時は毛利輝元と小早川隆景を〔「家康・輝元・隆景連署起請文前書案」(防府毛利報公会蔵・『特別展 五大老』パンフレット所収)〕、「五大老・五奉行」制度化時は前田利家を充てていた。秀吉の死後は遺命により、家康が伏見城下にて政務をとり、利家は大坂城において秀頼の傅役とされた〔「浅野家文書」(『大日本史料』)〕。これにより、慶長4年(1599年)春までは、家康の専横は防げなかったものの、家康が豊臣家より上回る権威を持つことを防ぐことはできた。
しかし、利家死後に家康は自分以外の大老を帰国させ、兵を率いて大坂城西の丸に入って秀頼を掌中に収め、中央において家康を掣肘する存在がなくなった。前田家は家康に屈服し人質を差し出し、残る三家は関ヶ原の戦いで敗れ改易または大幅減知となり脱落、家康の単独支配体制が確立した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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