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亀原嘉明 : ミニ英和和英辞書
亀原嘉明[かめはら よしあき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かめ]
 【名詞】 1. tortoise 2. turtle 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation

亀原嘉明 : ウィキペディア日本語版
亀原嘉明[かめはら よしあき]

亀原 嘉明(かめはら よしあき、1891年-1933年)は、日本の美術監督映画プロデューサーである。日本における映画美術の先駆者として知られる〔協会の歴史 日本映画・テレビ美術監督協会、2010年3月5日閲覧。〕。
== 人物・来歴 ==
1891年(明治24年)長野県上高井郡高山村の宮大工第三代亀原和太四郎嘉照の四男として生まれる。本名亀原袈裟治嘉明。上京する前は、父親と一緒に仕事をしたことがあり、長野県高山村天神原の天満宮の棟札には『小工 亀原袈裟治』の銘が墨書されている。
1912年(大正元年)に上京し、日活映画東京撮影所に大道具係として入社する。
1922年(大正11年)向島撮影所建設に参画。その後舞台装置部に転じ、装置部主任となる。〔『信濃の名工亀原和太田四郎』P4田子昭治2011年〕
田中栄三の回想によれば、日活が1913年(大正2年)10月に正式開所した日活向島撮影所大道具に、田中が入社する1917年(大正6年)ころには在籍していた〔『日本映画史発掘』、田中純一郎冬樹社、1980年、p.128-132.〕。当時は映画にスタッフのクレジットがなく、記録が残っていない〔『日本映画発達史 I 活動写真時代』、田中純一郎、中公文庫、1975年11月25日 ISBN 4122002850、p.370.〕。1922年(大正13年)、田中栄三監督の『京屋襟店』では、向島のグラスステージいっぱいに店舗のセットを建てた〔『日本映画発達史 I 活動写真時代』、p.364-368.〕。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生し、同撮影所は崩壊、日活本社は緊急事態を宣言するが、向島の現場を建て直し、溝口健二監督の『廃墟の中』等の美術を手がけたが、同年11月14日、京都・大将軍日活京都撮影所に異動となる〔『日本映画発達史 I 活動写真時代』、p.374.〕。1925年(大正14年)、日活大将軍撮影所と名称を変更した同撮影所で、溝口健二監督の『紙人形春の囁き』の撮影の際に、向島時代の『京屋襟店』同様、家のセットを一軒構築している〔『日本映画発達史 II 無声からトーキーへ』、田中純一郎、中公文庫、1976年1月10日 ISBN 4122002966, p.38-39.〕。
1928年(昭和3年)、池永浩久同撮影所長のもと、亀原は撮影部長(現在でいう製作部長〔マキノ映画人紹介 立命館大学、2010年3月5日閲覧。〕)に就任する。翌1929年(昭和4年)には、新人の長倉祐孝と共同で『栄冠』の監督を務めている。
1933年2月10日京都において死去。享年42。菩提寺は、京都妙心寺海福院。墓所は京都市大珠院。(戒名 積徳院春光浄栄居士)。〔『信濃の名工亀原和太田四郎』P5田子昭治2011年〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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