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乙骨三郎 : ミニ英和和英辞書
乙骨三郎[おっこつ さぶろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おつ, きのと]
  1. (adj-na,n) 2nd in rank 2. second sign of the Chinese calendar
: [ほね]
  1. (adj-na,n) bone 
: [み]
  1. (num) three 

乙骨三郎 : ウィキペディア日本語版
乙骨三郎[おっこつ さぶろう]
乙骨 三郎(おっこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月17日 - 1934年9月19日)は、日本の作詞家、音楽教育者東京都出身。
東京音楽学校教授や國學院大學講師として西洋音楽の普及、教育に努めた。また『日の丸の旗』『浦島太郎』『池の鯉』といった唱歌の作詞者としても知られる。
== 略歴 ==
1881年、旧幕臣、英学者で沼津兵学校教授の父太郎乙と母つきの間に生まれる〔昭和女子大学(1973)p.386〕。太郎乙には5男5女(うち長男と四男は幼い頃に亡くなっている)がおり、三郎はその三男であった〔正木みち「大塚・上の家下の家」『円交』5号 (2011年9月23日閲覧)〕。弟に、英文学者の乙骨五郎がいる。また祖父は儒学者乙骨耐軒である〔。また母つきは杉田玄白の曾孫に当たる〔。詩人・翻訳家の上田敏は従兄弟(上田の父・絅二は耐軒の次男〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)52頁〕)。
1898年第一高等学校一部文科に入学、ピアノやオルガンに親しんだ〔昭和女子大学(1973)p.387〕。卒業後の1901年には東京帝国大学文科大学哲学科に入学、日本の音楽レベルを向上させるべく、歌劇研究を行う「ワグネル会」を結成〔。同会は1903年に日本で初めて歌劇を上演したが、その演目であった『オルフォイス』の翻訳は乙骨が石倉小三郎近藤朔風(逸五郎)などと協力して手がけた〔昭和女子大学(1973)p.388〕。演奏面は東京音楽学校の学生が中心となり、やはり沼津兵学校教授だった渡部温の息子渡部康三が、兄の渡部朔から貰った資金を活用した。出演者には三浦環(当時は柴田環)もいた。
1904年9月、大学院に進学し美学を専攻〔。大学院卒業後、楽友社の雑誌『音楽』(『音楽之友』から改題)に寄稿を始め、西欧音楽の普及、紹介に努めた〔。
1907年には東京音楽学校ドイツ語教師嘱託として勤務、翌年教授となる〔昭和女子大学(1973)p.389〕。西洋音楽の紹介にも力を入れ、近藤逸五郎が編纂した『独唱名曲集』にはモーツァルトの『すみれ』やシューベルトの『死と乙女』などといった歌曲の訳詞を収めた。また『日本百科大辞典』(三省堂)の編纂にも参加し、主に西洋音楽に関する項を執筆した〔。
1910年、母つきが逝去〔昭和女子大学(1973)p.390〕。同年10月に福地金次郎の娘千代と結婚し、翌年長女みちが誕生〔。同じく1911年には國學院大學の講師に就任〔。また文部省の小学唱歌編纂委員として参加し、『尋常小学唱歌』の出版に関わった。そこに収録された唱歌の内、『日の丸の旗』『浦島太郎』『汽車』『池の鯉』などの作詞を手がけている〔。1912年に父太郎乙が逝去。
1911年頃から『西洋音楽史』の執筆を依頼され、執筆を続けていたが、体調が優れなくなり大学も休みがちとなった〔昭和女子大学(1973)p.392〕。肺結核〔正木みち「父乙骨三郎の思い出」『円交』5号 (2011年9月23日閲覧)〕を患い、1929年頃から体調は悪化、國學院大學を退官することとなった〔。その後も療養を続けていたが、1934年9月19日に永眠。享年53〔。遺された『西洋音楽史』は、それまでにも執筆を手伝っていた〔遺弟の太田太郎や高橋均夫妻の手によって完成され、死後の1935年に上梓された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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