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中川信夫 : ミニ英和和英辞書
中川信夫[なかがわ のぶお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

中川信夫 : ウィキペディア日本語版
中川信夫[なかがわ のぶお]

中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 1984年6月17日)は、日本の映画監督怪談映画の名手として知られる。
== 来歴・人物 ==
1905年(明治38年)4月18日、京都市洛西嵯峨二尊院門前町に生まれる。父・中川竹次郎は嵐山の料理旅館「嵐峡館」のシン(板前の主任)、母・ソノは同旅館の仲居頭だった。橘尋常小学校卒業後、兵庫県の旧制育英商業学校(現在の育英高等学校)に入学。1924年(大正13年)卒業。文学者になることを目指し同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だと思いその道をあきらめ、映画の道に進む。
キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家〔小津安二郎作品の詳細なショットの解説を細かく書いた評論などもあった。 - 『「映画評論」の時代』、著佐藤忠男、編著岸川真カタログハウス、2003年 ISBN 4905943523、P.16.〕を経てマキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。この時代には山上伊太郎伊丹万作小津安二郎らに強い影響を受けた。
1930年昭和5年)8月、世界大恐慌による不景気によりマキノ撮影所が給料遅配になり争議に突入すると、従業員側の記録係をつとめた。同年12月にマキノが製作を一時中断した後は無職で1年間過ごし、その時間をシナリオ執筆に費やした他、1931年には神戸市三宮の生田筋に喫茶店「カラス」を開業している。
1932年(昭和7年)に市川右太衛門が主宰する市川右太衛門プロダクション(右太プロ)に助監督の身分で移籍し、1934年(昭和9年)『弓矢八幡剣』で監督に昇進した。この作品は昇進試験として監督したもので、実質的なデビュー作は1935年(昭和10年)の『東海の顔役』である。
1936年(昭和11年)に右太プロが松竹に吸収合併された後は、マキノ・トーキーを経て1938年(昭和13年)に東宝に移籍した。時代劇やエノケン(榎本健一)主演作を主に監督したが、戦時期の映画製作本数の減少で、1941年(昭和16年)に東宝を契約解除となる。同年松竹京都撮影所製作部長の渾大坊五郎に招かれて同撮影所に移籍するが、間もなく松竹京都撮影所は製作体制を縮小して松竹大船撮影所に合併されることとなる。生活のために助監督をする覚悟で上京して大船に赴くが、不調に終わる。翌1942年(昭和17年)、中国に渡り、中華電影日中戦争の記録映画『浙漢鉄道建設』を監督した。途中結婚のための帰国を挟んで2年間撮影が続けられるが、映画は完成することなく終戦を迎えて『浙漢鉄道建設』のフィルムは焼却された。
1946年(昭和21年)、上海から帰国。同年、池田富保が設立した大同映画に入社するが、仕事はほとんどなく生活に困窮する。戦後、映画界に復帰する前から、詩の同人誌に参加していた〔『ふるほん行脚』、田中眞澄みすず書房、2008年 ISBN 4622073781, p.120.〕。11月、神港夕刊新聞社が主催した「新憲法公布記念文芸」の詩編部門で応募作『地ならし』が一等入選となり、知事賞を得る。
1947年(昭和22年)2月、県が日本国憲法公布を記念して募集した「兵庫県民歌」で応募作品が佳作に入賞する〔神戸新聞、1947年2月19日付2面「兵庫県民歌決る」。〕〔しかし、兵庫県は2014年まで1947年に県民歌を制定した事実を否定し続けていた。〕。この年、中華電影時代に親交を持った筈見恒夫と京都で偶然再会。当時新東宝のプロデューサーだった筈見の勧めで新東宝に移籍して、1948年(昭和23年)の『馬車物語』で映画監督に復帰した。同社が大蔵貢のワンマン体制に移行した後も同社で大蔵プロデュースの作品を量産し、1957年(昭和32年)の『怪談かさねが渕』以降は同社の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けた。
1961年(昭和36年)に新東宝が倒産した後は、東映京都撮影所国際放映と専属契約した後、1966年(昭和41年)にフリーとなる。東映東京撮影所製作の『妖艶毒婦伝 お勝兇状旅』(1969年)を最後に映画から離れ、テレビドラマの監督を経て1979年に第一線から離れる。
1977年(昭和52年)から1982年(昭和57年)まで神奈川県芸術祭演劇脚本コンクールに自作脚本6本を応募、いずれも入賞している。1982年磯田事務所ATGの提携作品『怪異談 生きてゐる小平次』で、13年ぶりに映画監督に復帰(製作は1981年)。1984年(昭和59年)にはイタリアペサロ映画祭で代表作『東海道四谷怪談』などが上映されることになり招待状を受け取るが、同年1月10日風邪から脊髄炎、更に3月には脳梗塞を発症し意識不明に陥ったため、映画祭への出席はかなわなかった。
1984年(昭和59年)6月17日、心不全のため死去。満79歳没。戒名は竟至院映道日信居士、墓所は神奈川県愛甲郡の相模霊園メモリアルパークである。1985年(昭和60年)6月21日、一周忌を記念して新宿胡坐楼で開催された「中川信夫カントクを偲ぶ会」が参加者の総意で毎年開かれることになり、1987年(昭和62年)以降は忌名を「酒豆忌」として現在に至っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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