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ロバート・ウォルポール : ミニ英和和英辞書
ロバート・ウォルポール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ロバート・ウォルポール : ウィキペディア日本語版
ロバート・ウォルポール[ちょうおん]

初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール(、1676年8月26日 - 1745年3月18日)は、イギリス政治家貴族
1701年ホイッグ党庶民院議員に当選して政界入り。高い討論力で頭角を現し、ホイッグ党政権(あるいはホイッグ党参加政権)で閣僚職を歴任した。1720年南海泡沫事件の後処理を指揮。事件後にはホイッグ政権の最大の有力者となり、1721年第一大蔵卿に就任した。与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行ったため(責任内閣制)、この時期の彼を最初の「イギリス首相」とするのが一般的である。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが商業国家として躍進する土台を築いた。1733年のタバコ消費税法案の挫折で求心力を落としはじめ、1741年ので与党の議席を大幅に減らしたため1742年に退陣した。
== 概要 ==
1676年イングランド・に地主の三男として生まれる。イートン校を経てケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学。兄が死去したため、代わりにウォルポール家の財産を相続した(''→生い立ち'')。
1701年に父が議席を持っていた選挙区から立候補して庶民院議員に当選。ホイッグ党に所属して時のトーリー党政府に対して野党として論争を挑み、高い討論力を見せつけて庶民院内で急速に頭角を現した(''→政界入り直後の野党期(1701-1705)'')。1705年ので与野党の議席が伯仲化した結果、ホイッグ党議員が閣僚に登用されるようになり、ウォルポールも海軍本部委員会委員、ついでに就任した。しかしその後世論のホイッグ批判の高まりや1710年ののホイッグの敗北などによりホイッグ閣僚が次々と辞任に追いやられ、彼も1710年10月に辞職した(''→政府への参加(1705-1711)'')。その後再び庶民院でトーリー政府批判を展開したが、政府に危険視され、1712年1月には汚職行為を働いたとされて議会の議決によりロンドン塔に投獄された。しかしこれにより反政府派から英雄視され、ホイッグ党内で権威を高めた(''→汚職容疑でロンドン塔に投獄(1712)'')。
1714年ハノーヴァー朝ジョージ1世が即位するとトーリーが退けられてホイッグ政権が創設され、ウォルポールもに就任。また議会において前トーリー政権責任追及の中心人物となり、前政権首脳陣をジャコバイトとして徹底糾弾し、ホイッグ一党優位体制の確立に貢献する。1715年には第一大蔵卿に就任してホイッグ政府の最有力閣僚の一人となる。しかしその後国王やジェイムズ・スタナップのハノーヴァー優先外交を批判したことで1717年4月には下野に追い込まれた(''→ハノーヴァー朝成立で政権復帰(1714-1717)'')。
その後スタナップ政権に対して激しい野党活動を展開し、それに耐えかねたスタナップは、1720年6月にウォルポールを陸軍支払長官として再登用した(''→スタナップ政権に対する野党期(1717-1720)'')。直後に発生した南海泡沫事件ではバブル発生当時政権におらず責任追及される立場にない閣僚として後処理を指揮した。この事件中に多くのホイッグ有力政治家が辞職に追い込まれたり、死去したりしたため、ウォルポールが主導権を握る政権が誕生することになった(''→政権復帰と南海泡沫事件(1720-1721)'')
1721年4月に第一大蔵卿に就任。閣議を主宰して他の閣僚を統制し、議会の与党議員も統制して議会の支持を基盤にした最初の閣僚という意味でこの時期のウォルポールを「初代イギリス首相」とするのが一般的である(''→初代首相(1721-1742)'')。政権内ライバルを失脚させたり、トーリー党や反政府派にジャコバイトのレッテルを貼って野党活動をけん制することで議会を掌握し続けた。1722年のや1727年のでは政府機密費を流用して買収に励んだ結果、大勝を収めた(''→政敵を排除して権力強化'')。勃興期のジャーナリズムに対しては言論統制に努め、買収や言論弾圧を盛んに行った。1737年にはを制定して言論統制を演劇に拡大し、ヘンリー・フィールディングらの反政府演劇を弾圧した。ジャコバイトの海外連絡の監視も強化した(''→言論統制'')。こうした政敵排除によって「ロビノクラシー」「パクス・ウォルポリアナ」と称される強力な安定政権を樹立することができた。
外交面では議会の不安定化を嫌って戦争回避の平和外交に努めた(''→外交'')。経済政策も議会統制の観点から行い、土地税減税・国内商工業振興・塩税など、議会に影響力を持つ地主・ブルジョワを優遇し、議会に影響力を持たない貧民から絞り取る路線を目指した(''→経済政策'')。1733年には土地税減税を続けるべくタバコ消費税導入を目指したが、一般消費税への拡大や徴税官の立ち入りを恐れたイギリス商人層が反発し、議会の野党活動が高まり、法案は挫折。直後の1734年のも与野党の議席差が約100議席に縮まる結果となり、ウォルポールの議会統制力に陰りが見え始めた(''→消費税法案の挫折'')
1739年には議会の反スペイン感情の高まりでスペインに対してジェンキンスの耳の戦争に及ぶことを余儀なくされたが、ウォルポール自身は戦争指導に消極的だったので政治指導力を落としていった(''→ジェンキンスの耳の戦争'')。さらに1741年ので与野党の議席差は20議席以下にまで縮まった。その後、召集された議会での採決に僅差で敗れたため1742年2月をもって辞職した。退任とともにオーフォード伯爵に叙せられた(''→退任'')。1745年3月18日ロンドンで死去した(''→余生と死去'')。
ウォルポールの20年に及ぶ長期安定政権はイギリスを商業国家として躍進させ、後の大英帝国の基礎となったと評価されている。他方、総選挙の度に政府機密費を流用して買収・接待に励んだため、金権政治をもたらした人物との批判もある(''→人物・評価'')。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロバート・ウォルポール」の詳細全文を読む




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