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リヒャルト・フォークト : ミニ英和和英辞書
リヒャルト・フォークト[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リヒャルト・フォークト : ウィキペディア日本語版
リヒャルト・フォークト[ちょうおん]

リヒャルト・フォークト(''Richard Vogt'', 1894年12月19日 - 1979年1月)は、ドイツの技術者であり航空機の設計技師である。
第二次世界大戦中の左右非対称の形状の偵察機や戦後の原子力爆撃機といったユニークな軍用機の設計で知られる〔''Secret Weapons of the Luftwaffe, Part III'' , by Jim "Twitch" Tittle, on combatsim.com, 10月4日 2001年. Retrieved 4月16日 2008年.〕。
== 経歴 ==
当時ドイツ帝国を構成していたヴュルテンベルク王国のの街で12人兄弟の7番目の子に生まれ、にある普通のに通った。この生徒時代にエルンスト・ハインケルに出会う機会があり、これが飛行に対する熱中へと昇華する最初の航空機に関する経験となった。
1912年の18歳のときに自身の最初の飛行機を造り、このdraft planeで友人の手を借りて最初のテスト飛行を行おうとした。当局の許可を得てシュヴェービッシュ・グミュントの隣町のの原野でこの計画を実行したが、エルンスト・ハインケル立会いの下に行われたこの試験飛行は成功しなかった。
高等学校を卒業後、1年間だけルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインにあるエンジン工場で働いた。
第一次世界大戦が始まるとドイツ帝国の軍隊に入隊したが、戦闘中に負傷して家へ戻る。その後本人の願いによりで操縦訓練を受けた。1916年8月に除隊し、フリードリヒスハーフェンの社で働けるようになり、そこでクラウディウス・ドルニエと出会った。航空機設計家になる努力を続けるように激励してくれたドルニエに感銘を受け、大戦後にシュトゥットガルトので2年間の教育を受けた。その後1922年までシュトゥットガルト大学の航空機/自動車システム研究室でアレクサンダー・バウマンの助手を務め、この期間に最初の特許を取得し、博士号の学位も受けた。これが航空機設計家としての始まりであった。
クラウディウス・ドルニエの代わりに短期間イタリアに行き、1923年から1933年まで日本神戸にあるドルニエ機をライセンス生産していた川崎造船所(川崎航空機)へ派遣された。日本で主任設計技師の地位を与えられ、後に三式戦闘機「飛燕」を設計する後継者となる若い技術者の土井武夫を育成。この期間に、川崎KDA-5陸軍九二式複葉戦闘機川崎KDA-2陸軍八八式複葉偵察機、川崎KDA-3単座戦闘機(土井武夫との共作)を含む数機種の設計を行った。
1933年にドイツに戻り、航空機部門の筆頭技術者として招聘するというブローム・ウント・フォス造船所の申し出を受けた。同社での最初の仕事はHa 136単葉練習機で、2番目が逆ガル翼Ha 137急降下爆撃機であった。成功作とはならなかったが、燃料タンクを内蔵した長方形または正方形断面のの美しい片持ち式の主翼といった、幾つかの先駆的な技術を備えていた。その特徴は日本で関わっていた川崎キ5の設計に似ている。これらの仕事の後、BV 138洋上偵察飛行艇Ha 139水上輸送/偵察機Ha 140水上雷撃機 BV 141偵察機、BV 222輸送/偵察飛行艇 ''ヴィーキング(Viking)''、BV 238輸送/偵察飛行艇は彼の指導と大幅な関与の下に製造された。BV 141はそのユニークな非対称構造で有名であり、BV 222とBV 238飛行艇は各々がその初飛行時、最も重い航空機であったと考えられている。もう1機種、8発エンジンで航続距離8,000kmの巨大な飛行艇の計画を立てていたが実現しなかった。
1943年半ばにブローム・ウント・フォス BV 155高高度迎撃機の設計が始まった。この機体は当初メッサーシュミット社で航空母艦で運用される艦上機として開発されていたが、戦況の流れがこの機体の開発を妨げ、ブローム・ウント・フォス社はドイツ空軍からこの高高度戦闘機を引き継ぐように命令を受けた。フォークトは全面的にこの機体を再設計し、1944年末か1945年初めに試作機を製造したが、1945年のドイツ降服まで就役することはなかった。
戦争の最終段階で戦況の悪化がより効果的な防御兵器の必要性を生じさせてきたことに応じて、大量の爆発物を搭載できる無人グライダーのBv 246 "''Hagelkorn (Hailstone)''"を設計した。この小型のグライダー爆弾は高高度でこれを投下した母機から無線で操縦されたが、1,000機以上製造されたにもかかわらず実戦では使用されなかった。ジェット戦闘機の開発計画も持っていたが、これは実行には移されなかった。
第二次世界大戦後、ペーパークリップ作戦を実施していたアメリカ空軍に請われ、米国へ移住した。1947年から1954年までオハイオ州デイトンにあるアメリカ空軍の研究所で民間人として働き、その後航空物理開発社(Aerophysics Development Corporation)の主任設計技師となり、1960年にその業務を止める決断をするまで働いた。1960年8月から1966年8月までは、ボーイング社の研究試験部門で主任空力技師を務めていたジョージ・シャイラー(George Schairer)のチームの一員となった。ボーイング社では特に垂直離着陸機(VTOL)と水中翼船の設計に携わる。また主翼の長さと形状が航続距離に与える影響についての調査も行い、主翼の先端に小型の延長翼を取り付けることにより空気力学的改善が図られ、航空機の運用航続距離を増大させることを解明した。この発見は近代的な航空機では広く用いられ、延長翼はウイングチップウィングレットという名称で知られている。最後の仕事はボーイング747の設計の出荷後評価(the after-launch evaluation)であった。退職後は転覆しない安全ヨットの設計と自伝の執筆に時間を費やしたが、1977年に自宅が火災で全焼、多くの個人記録や技術資料が失われた。
結婚して2人の子供を儲けている。1979年にはカリフォルニア州サンタバーバラにおいて心筋梗塞が原因で84歳で死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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