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リデル・ハート : ミニ英和和英辞書
リデル・ハート[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リデル・ハート ( リダイレクト:ベイジル・リデル=ハート ) : ウィキペディア日本語版
ベイジル・リデル=ハート[ちょうおん]
サー・バジル・ヘンリー・リデル=ハート(Sir Basil Henry Liddell-Hart, 1895年10月31日 - 1970年1月29日)は、イギリスの軍事評論家、軍事史研究者、戦略思想家。日本ではファーストネームを誤って「ベイジル」と発音されることが多いが、実際の発音は「バジル」が正しい。
軍事戦略陸上作戦核戦略の研究領域において奇襲機動戦間接アプローチ大戦略などの研究業績を残した。20世紀という時代を象徴する戦略思想家〔石津 (2008) p.2〕と称される。リデル=ハートに影響を与えた人物には孫子カール・フォン・クラウゼヴィッツジョン・フレデリック・チャールズ・フラーなどがおり、彼が影響を与えた人物にはハインツ・グデーリアンオード・ウィンゲートバーナード・ブローディなどがいる。
== 生涯 ==

=== 生い立ちと軍歴 ===
1895年パリのイギリス人牧師の家庭に生まれた。幼少から戦争シミュレーションに強い関心を抱いており、チェス愛好家でもあった。歴史鉄道旅行についての本を数多く読んでおり、小学校では国語と歴史、地理が得意であった。病弱であったがクリケットサッカーも好んでいた。13歳のときに志望した海軍学校の入学試験では身体検査の結果が悪かったために入学はできなかった。セント・ポールに進学するとラグビーを好むようになり、航空について強い関心を示すようになり、航空雑誌に意見を投稿している。
ケンブリッジ大学に入学し、歴史学を専攻するが、成績は芳しくなかった。後年ケンブリッジ大学で学んだものを問われた際に、最高級の料理とワインの味と答えている。軍事史に興味を示すようになるのはこの頃からである。1914年第一次世界大戦が勃発し、イギリス陸軍を志望し、大学将校養成センターで訓練教育を受け、英陸軍の臨時士官になる。そして1914年11月から西部戦線に送られ、12月7日にキングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵連隊の少尉として任官された。当時、リデル=ハートは19歳であった。
まずフランスモーランコー、次にイープルで勤務したが、戦場での熱病、負傷により2度本国に送還されており、ごく短期間の勤務になった。3度目の勤務では1916年7月にソンムの戦いにヨークシャー歩兵連隊の大隊指揮官として攻勢作戦に参加したが、激しい戦闘で大隊は壊滅し、自身も負傷でまた本国に送還された。この戦闘経験は自身の回顧録によれば、「目的達成のために要する人的物的損害を最小化する」ことへの問題意識を持たせることとなり、間接アプローチ戦略の原点となったと述べている。
その後、イギリスで歩兵戦術についてのパンフレットを作りフランス駐留英陸軍部隊に配布された。その後陸軍の要請を受けて『歩兵操典』を作成した。1922年から1924年の間は持病の心臓発作などの理由でイギリス陸軍教育隊に教官として配属されることとなったが、強烈な個性のために将校として不適格と判断され、1927年には大尉で退役した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ベイジル・リデル=ハート」の詳細全文を読む




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