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マルチナ・ナブラチロワ : ミニ英和和英辞書
マルチナ・ナブラチロワ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


マルチナ・ナブラチロワ : ウィキペディア日本語版
マルチナ・ナブラチロワ

マルチナ・ナブラチロワMartina Navrátilová , 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。
1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。
2010年4月7日、雑誌「People」で乳がんであることを告白した。

== キャリア ==
出生名は「マルチナ・シューベルトワ」(Martina Šubertová )。3歳の時に実の両親が離婚、その後母親がミロスラフ・ナブラチルと再婚したことから、継父の姓の女性形を名乗って「ナブラチロワ」になった。1975年、共産主義国のチェコスロバキアを離れてアメリカに亡命。1978年ウィンブルドン選手権で4大大会初優勝を果たした(この時点ではまだチェコスロバキア国籍であった)。1981年7月に米国市民権を取得。以降アメリカ国籍でプレーし、同年全豪オープン〔全豪オープンは1985年まで12月の年末に開催されていた。現在のような1月開催になったのは1987年の大会からであり、1985年12月 → 1987年1月と開催時期の変更がなされたため「1986年全豪オープン」は“開催せず”の空欄となっている。〕 で米市民権取得後初優勝を果たした。
初期のナブラチロワには精神面の弱さや亡命問題のストレスなどがあり、選手としての開花は25歳を過ぎてからであったが、1981年全豪オープン優勝を契機に無敵の強さを発揮し始める。1982年全仏オープンウィンブルドン選手権を制覇して4大大会3連勝。この年からウィンブルドン選手権における、前人未到の「6連覇」が始まる。1983年のウィンブルドン選手権から1984年全米オープンまで、2年間にまたがる4大大会「6連勝」を達成。しかし年末開催の全豪オープン準決勝でヘレナ・スコバに敗れ、“年間”グランドスラムを逃してしまう(4年後の1988年シュテフィ・グラフが年間グランドスラムを達成したため、ナブラチロワの2年間にまたがる記録は「グランドスラム」認定から取り消された)。1983年全仏オープン4回戦で敗れた後、1983年は3つのグランドスラムを含む全てのトーナメントで優勝し、1983年をマッチ86勝1敗でシーズンを終え、勝率は98.9%に達した。さらに翌年の1984年は、年初のトーナメントでハナ・マンドリコワに敗れるが、その後全豪オープン準決勝で敗れるまで74連勝を記録した。この記録は現在も男女を通じて最長である。〔Top five women's winning streaks http://www.tennishead.net/news/on-tour/2012/03/23/top-five-womenandxe2andx80andx99s-winning-streaks〕1987年にウィンブルドン選手権で6連覇を達成。この時から彼女は1938年に同選手権「8勝」を挙げた往年の名選手、ヘレン・ウィルス・ムーディの記録を更新する目標を掲げた。しかし1988年の同選手権決勝で19歳の新女王シュテフィ・グラフに敗れ、大会7連覇を逃した。グラフには1989年の決勝でも敗れている。1990年の決勝戦で黒人選手のジーナ・ガリソンに完勝し、宿願のウィンブルドン選手権「9勝」を果たす。52年間大会歴代1位であったムーディの記録はこうして破られた。
1994年を「シングルス最後の年」と位置づけたナブラチロワは、あまり得意ではないクレーコートの全仏オープンに6年ぶりの参加を決めたが、1回戦敗退に終わる。最後のウィンブルドン選手権では4年ぶりの決勝に進出したが、スペインコンチタ・マルティネスに敗れて大会10勝目を逃した。同年11月の女子ツアー年間最終戦「バージニア・スリムズ選手権」において、女子テニス選手として初めての「引退式典」がナブラチロワの偉業を讃えて開催された。38歳に至るまで第一線で活躍したナブラチロワは、世界ランキング4位で現役を退いた。
ナブラチロワはダブルス選手としても、様々なパートナーたちと組んで数々の歴史的な記録を残してきた。キャリアの初期にはビリー・ジーン・キング夫人と組むことが多く、後にパム・シュライバーと組んで4大大会の女子ダブルスに「20勝」を記録した。2人のペアは1983年ウィンブルドンから1985年全仏オープンまで4大大会に「8大会連続優勝」を飾り、1983年 - 1985年にかけて女子ダブルス「109連勝」の記録を樹立する。前人未到の大記録は、1985年ウィンブルドン女子ダブルス決勝で止まった。2人の連勝記録を止めたのは、キャシー・ジョーダンアメリカ)&エリザベス・スマイリーオーストラリア)組であった。
1994年にシングルスの第一線から引退した後、ナブラチロワは6年後の2000年全米オープンでダブルスに現役復帰を果たす。ダブルス復帰から3年後、2003年全豪オープン2003年ウィンブルドンの混合ダブルスで、インドリーンダー・パエスと組んで優勝した。全盛時代のナブラチロワは全豪オープンの混合ダブルス部門だけ優勝がなかった(1970年~1986年まで、全豪オープンでは、混合ダブルス部門の実施が無かった)ため、これで彼女の「ボックス・セット」(Boxed Set)が完成した。(ボックス・セット=テニス用語で、テニス4大大会のすべてにおいて、男女シングルス・男女ダブルス・混合ダブルスの3部門に「キャリア・グランドスラム」を達成すること)彼女の4大大会初タイトルであった1974年全仏オープンの混合ダブルス部門から数えて、実に29年がかりで達成した「ボックス・セット」であった。ボックス・セット完成から3年後、ナブラチロワは2006年全米オープンの混合ダブルス部門で、ボブ・ブライアンとペアを組んで決勝に進出する。ナブラチロワとB・ブライアンはマルティン・ダムクベタ・ペシュケ組(ともにチェコ)を 6-2, 6-3 で破り、最後の舞台を優勝で飾った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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