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ヘリオガバルス : ウィキペディア日本語版
ヘリオガバルス

マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス(〔In Classical Latin, Elagabalus' name would be inscribed as MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS.〕、203年3月20日 - 222年3月11日)は、ローマ帝国第23代皇帝で、セウェルス朝の第3代当主。ヘリオガバルス(''Heliogabalus'' )、またはエラガバルス(''Elagabalus'' )という渾名通称で呼ばれることが多く、これはオリエントにおけるヘーリオス信仰より派生した太陽神エル・ガバル(「山の神」の意)を信仰したことに由来する〔鶴岡(2012)pp.24-31〕。
セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルス外戚にあたるバッシアヌス家出身のシリア人で、元の本名はウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス(''Varius Avitus Bassianus'')といった。セウェルスの長男であったカラカラ帝が暴政の末に暗殺されるとバッシアヌス家もまたローマより追放されたが、彼の母は密かにセウェルス朝復権の謀議を画策した〔セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルスは、非ヨーロッパ人で初めて帝位に就いたセム系のローマ皇帝で、皇帝就任以前は財務官やシリア軍団長を歴任した。セプティミウス・セウェルスは人気の高かったマルクス・アウレリウス帝の子孫を名乗ることで、みずからの出自の属州的要素を薄めようとした。松本(1989)p.132〕。血統上、カラカラ帝の従姉にあたるソエミアスは自身が夫との間にもうけた子息アウィトゥス(ヘリオガバルス)が先帝カラカラの隠し子であると主張して反乱を起こした。戦いは既に帝位にあったマクリヌス側の敗北に終わり、セウェルス朝復権を名目としてわずか14歳のヘリオガバルスが皇帝に即位した。
しかし、彼の統治はしばしば今までも登場した暴君達の悪名すらも越える、ローマ史上最悪の君主として記憶されることとなった。ヘリオガバルスは放縦と奢侈に興じ、きわめて退廃的な性生活に耽溺し、しかもその性癖は倒錯的で常軌を逸したものであった〔木村(1988)p.658〕。また、宗教面でも従来の慣習制度を全て無視してエル・ガバルを主神とするなど極端な政策を行った。
ヘリオガバルスの退廃した性生活についての話題は、彼の政敵によって誇張された部分があるともみられているが、後世の歴史家からも祭儀にふけって政治を顧みなかった皇帝として決して評判はよくない〔〔松本(1989)pp.132-137〕。『ローマ帝国衰亡史』で知られる18世紀イギリスの歴史家エドワード・ギボンにいたっては「醜い欲望と感情に身を委ねた」として「最悪の暴君」との評価を下している〔Gibbon, Edward. ''Decline and Fall of the Roman Empire'', Vol. 1, Chapter 6.〕。19世紀前半のドイツの歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールもまた、主著『ローマ史』のなかでヘリオガバルス帝の退廃について言及している〔Niebuhr, B.G. ''History of Rome'', p. 144 (1844). Elagabalus' vices were, "Too disgusting even to allude to them."〕〔ニーブールは、19世紀に活躍したコペンハーゲン出身のドイツの歴史家で、しばしば近代歴史学の祖のひとりと評される。〕。
== 生涯 ==

=== 生い立ちと皇帝即位までの経緯 ===

皇帝ヘリオガバルス(ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス)は、元老院議員の父と母の子として203年シリアのエメサ(現在のホムス)で生まれた〔〔Herodian, ''Roman History'' V.3 〕。父マルケルスは騎士階級出身で、のちに元老院入りを果たした人物であり、母方の祖母ユリア・マエサはエメサの町の大祭司の娘で、セウェルス朝の開祖セプティミウス・セウェルスの皇妃ユリア・ドムナの姉であった〔〔Cassius Dio, ''Roman History'' LXXIX.30 〕。したがって、彼の母ユリア・ソエミアスはセウェルスの嫡男であるカラカラ帝とは従姉弟の関係にあり、皇帝家の一員であった〔。幼少期のウァリウス・アウィトゥスは母方一族の生業である神官として養育されたとみられる。「ヘリオガバルス」とは元来エメサ土着の太陽神であった〔。少年は長じて太陽神ヘリオガバルス(エル・ガバル)の司祭を務め、のちに、その名をそのまま自分の通称とした〔。やがて皇帝となる少年ヘリオガバルスは美貌に恵まれていた〔秀村(1974)pp.418-420〕。
残虐な性格で浪費家として知られていたカラカラ帝は共同統治者で弟のゲタ帝と、その一派2万人以上を殺害するなどの暴政によって元老院からの信望を失い、217年4月8日メソポタミアハッラーンで暗殺された〔〔。カラカラには子どもがなく、新しい皇帝にはクーデターの首謀者であった近衛隊隊長のマルクス・オペッリウス・マクリヌスが即位した〔。
即位したマクリヌス帝は、北アフリカマウレタニアの出身で、騎士身分で初めて皇帝位に就いた人物であったが、セウェルス一族を宮殿から一掃することで、セウェルス朝復活の目論見を防ごうとした〔〔。それに対し、中東の属州シリアに幽閉されたセウェルス一族のうち、カラカラ帝の伯母ユリア・マエサは自らの孫であるヘリオガバルスを帝位に就ける陰謀をめぐらした〔。マクリヌス帝は、その子息ディアドゥメニアヌスと共同で統治したが、東方の大国パルティアに敗れて屈辱的な講和を結んだため、軍隊からの信頼を失っていた〔。
14歳の少年であったウァリウス・アウィトゥス(ヘリオガバルス)は既に先帝カラカラとは女系を通じて親族であったが、未亡人となっていた少年の母ソエミアスは、帝位継承をさらに正当化しようとして、自ら従弟カラカラのだったと公言し、少年は先帝と密通して生まれたカラカラの落胤であると主張した〔〔〔。これは、少年の祖母にあたる母ユリア・マエサの意向を受けたもので、マエサは自分の娘を姦婦にしてでも孫を帝位に就かせたかったのである〔〔ヘリオガバルスを皇帝にすえるという考えは、当初ユリア・マエサの愛人ガンニュスが発したものといわれている。ガンニュスは皇帝のローマ入城前、ヘリオガバルスによってニコメディアで処刑された。〕。マエサは、軍人に人気のあったカラカラ帝の威光を利用する作戦を採り、つづいてセウェルス家のを駆使して第3軍団「ガッリカ」の兵士将軍を買収して自陣営の戦力を調達した。
218年5月16日の夜、少年の一行はエメサに駐屯するローマの軍団に潜入した〔。それに対し、軍団指揮官のはウァリウス・アウィトゥス少年への忠誠を正式に宣言した〔Cassius Dio, ''Roman History'' LXXIX.31 〕。挙兵に際して、ヘリオガバルス少年は「ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス」という従来の名を、カラカラの本名になぞらえて「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」と改名した〔Cassius Dio, ''Roman History'' LXXIX.32 〕。
ヘリオガバルスの反乱を知ったマクリヌス帝は直ちに遠征軍を派遣したが、そのなかで軍団兵による内乱が発生した。指揮官は暗殺され、兵士たちは指揮官の首をローマに送り返すと、ヘリオガバルスの軍勢に合流した〔Herodian, ''Roman History'' V.4 〕。オリエント諸州の兵たちは、ヘリオガバルスを支持したのである〔。
軍の反乱を前にマクリヌス帝はヘリオガバルスを「偽のアントニヌス」と痛罵し、反乱は発狂した神官による暴挙であると記した手紙をローマの元老院に書き送った〔Cassius Dio, ''Roman History'' LXXIX.36 〕。元老院はマクリヌス帝の言い分を認めて、軍の意向とは異なり、ヘリオガバルスを僭称帝とする決議を可決した〔Cassius Dio, ''Roman History'' LXXIX.38 〕。
元老院の支持を得たマクリヌス帝は自ら軍を率いて親征を開始したが、マエサに買収された第2軍団「」の裏切りによってにおいて敗北した〔。マクリヌスは命からがら戦場から脱してイタリア本土へ戻ろうとしたが、カッパドキアで捕らえられ、斬首の刑に処せられた〔〔。同じく捕らえられたマクリヌス帝の子ディドゥメニアヌスも処刑された〔。
アンティオキアでの勝利をもとに、ヘリオガバルスは元老院の許可なしに皇帝即位を宣言した〔Cassius Dio, ''Roman History'' LXXX.2 〕。これは完全に、ローマ法の定める秩序に違反した行為であったが、3世紀に即位したローマ皇帝にはしばしばみられた行為ではあった。また同時に、ヘリオガバルスはマクリヌス帝の治世を批判する手紙を元老院に送付して行為の正当化を図っている〔Cassius Dio, ''Roman History'' LXXX.1 〕〔本来的には、ローマの皇帝は元老員議員であることが所与の条件とされ、元老院より「同輩中の首席」として推挙されることが慣例となっていたが、五賢帝以後はその慣例は有名無実化し、帝位はもっぱら経済力や軍事力に左右された。鶴岡(2012)p.28〕。
結局のところ元老院は、218年の6月、既成事実を追認するかたちでヘリオガバルスの帝位を認め、また、彼がカラカラ帝の実子であることを承認した〔Herodian, ''Roman History'' V.5 〕。同時に暴君とその母として忌避されていたカラカラとユリア・ドムナをとして祭るという要求も承諾し、逆にマクリヌス帝が「名誉の抹殺」(ダムナティオ・メモリアエ)に処されることになった〔。また新しい近衛隊長には反乱の立役者が任命された〔Cassius Dio, ''Roman History'' LXXX.4 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘリオガバルス」の詳細全文を読む




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