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ヘブライ語大辞典 : ミニ英和和英辞書
ヘブライ語大辞典[へぶらいごだいじてん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ヘブライ語 : [へぶらいご]
 (n) Hebrew
: [ご]
  1. (n,n-suf) language 2. word 
辞典 : [じてん]
 【名詞】 1. dictionary 
: [のり]
 【名詞】 1. rule 2. law

ヘブライ語大辞典 : ウィキペディア日本語版
ヘブライ語大辞典[へぶらいごだいじてん]

ヘブライ語大辞典』(ヘブライごだいじてん、、「新・旧ヘブライ語辞典」の意)は、『ベン・イェフダー辞典』() という名でより知られる、ヘブライ語史上における重要な辞典である。ヘブライ語学者、エリエゼル・ベン・イェフダー ( ; Eliezer Ben-Yehuda、1858年 - 1922年) により、ヘブライ語復活のための活動の一環として編纂され、1908年に第1巻が出版された。ベン・イェフダーの死後、ヘブライ語研究者のモシェ・ツヴィ・セガル ( ; Moshe Tzvi Segal、1876年 - 1968年)、ナフタリ・ヘルツ・トゥルシナイ ( ; Naftali Herz Tur-Sinai、1886年1973年) らにより編纂作業が続けられ、1958年に最終巻が完成した。もっぱら学術的な研究に使用が限定されることが多い辞典であるが、すべての項目に幅広い時代の引用が盛り込まれているため、ヘブライ語史研究における重要な参考資料と見なされている。
== 辞典の誕生 ==
幼少期にイェシーバーで学んでいた編纂者のベン・イェフダーは、そこでヘブライ語に出会った。彼の故郷であるリトアニアにおける友人たちとの会話のなかで、「同じ一つの言語を話さなければ、ユダヤ人は一つの民族になることができない」という言葉を聞いた。この言葉をきっかけにベン・イェフダーは、イスラエルの地(国)とヘブライ語という二つの物によって、ユダヤ人は完全に一つの民族となれる、と確信するようになった。彼はこの考えを、医学の勉強のためパリ留学中だった1879年、ヘブライ語の月刊誌『夜明け』( , ''HaShachar'') に寄せた論文、「重要な質問」("") で表明した。
19世紀末においてヘブライ語は、パレスチナのユダヤ人社会において書記言語としてのみ用いられており、ヘブライ語を日常の話し言葉として使おうと望んでいる者は誰もいなかった。それにもかかわらずベン・イェフダーは、ヘブライ語を日常会話で使用するための教育を民衆に授けることは可能であると考えていた。ベン・イェフダーの唯一の気がかりは、長年話されることのなかったヘブライ語の復活が可能なのかということと、ヘブライ語を新しい時代に適応させることができるか、ということであった。ベン・イェフダーは言語の専門家に、かつてそのような言語の復活が成功した例があったか尋ねたが、否定的な回答を得ただけであった。しかし、ベン・イェフダーは「一人の人間が何かしら言語を習得することができるのだから、一民族全体が言語を習得することも可能なはずである」と主張した。ベン・イェフダーは自分自身でこの考えを試みることを決心し、自らヘブライ語を話すことにした。しかし、彼はすぐに自分の語彙が限られていることに気づく。当時既にあったヘブライ語の辞典を調べても、19世紀末の会話で使用するのにふさわしいものがなかなかなかったのである。
この段階でベン・イェフダーは、実用的な単語を使ってヘブライ語の本を書こうとした。最初に、ユダヤ教文献『ミシュナー』から道具の名前を探し出して一覧にし、その際に出くわしたより使用頻度の低い単語も書き加えていった。こうしてできた「本」を何と呼ぶかという問いに決着をつける前に、ベン・イェフダーは結核を患い、医学の勉強を中止してアルジェに渡る。そこでベン・イェフダーは当地のユダヤ人たちとヘブライ語のみで会話を行い、結果、彼のヘブライ語能力は向上した。病状が回復するとベン・イェフダーはアルジェを離れ、パレスチナに移住した。パレスチナへの移動中に幼馴染のデボラ・ヨナス () に再会し、結婚する。夫妻には二人の子供が生まれたが、彼らはヘブライ語で教育された。ベン・イェフダーのヘブライ語に対する熱狂の結果である。
もともとのベン・イェフダーの意図は、今日知られているような辞典を執筆することではなく、様々な単語の分類を行うことだった。ベン・イェフダーの作った単語リストは、パレスチナで最初のヘブライ語新聞『ハヴァツェレット』() に掲載され、その最初の項目は、""(「石」の意)であった。しかし、ベン・イェフダーは、すべてのユダヤ人がヘブライ語を話すという自分の夢を実現させるには、このような単語リストでは不十分であると悟った。ベン・イェフダーはすべての単語の定義を決定しようとしたが、そのために必要な膨大な作業量のために断念を余儀なくされ、かわりに、語義について議論のある、難しい単語の定義づけを行うことを決心する。
こうして始まった辞典の編纂作業は、ベン・イェフダーのヘブライ語復活のための熱心な活動のため中断されることがあった。例えば、ベン・イェフダーはユダヤ人の家庭に対し、ヘブライ語を日常会話で使用するように説得活動を多く行ったほか、自ら発行していたヘブライ語新聞『ハツヴィ』() の編集活動も続けていた。さらに1890年には、ヘブライ言語委員会イスラエルのヘブライ語の研究機関「ヘブライ言語アカデミー」の前身)を設立した。また、この頃妻デボラが結核により亡くなっている。また、1894年、人々に反乱をそそのかしているという濡れ衣をエルサレムの住人たちによって着せられ、オスマン帝国当局に逮捕、監禁されている。後に、エドマン・ジャム・ド・ロートシルトフランスロスチャイルド家の当主で、シオニズム運動を支援していた)の助力で釈放されるが、新聞の発行は禁止された。そのためこの後、ベン・イェフダーは辞典の編纂に全力を傾けることができるようになったのである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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