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ブラームス : よみがなを同じくする語

ブラームス
ブラームス : ミニ英和和英辞書
ブラームス[ブラームス]
(n) Brahms, (n) Brahms
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ブラームス : [ぶらーむす]
 (n) Brahms, (n) Brahms
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ブラームス ( リダイレクト:ヨハネス・ブラームス ) : ウィキペディア日本語版
ヨハネス・ブラームス[ちょうおん]

ヨハネス・ブラームス(、1833年5月7日 - 1897年4月3日)は、19世紀ドイツ作曲家ピアニスト指揮者である。J.S.バッハBach)、ベートーヴェンBeethoven)と共に、ドイツ音楽における「三大B」とも称される。ハンブルクに生まれ、ウィーンに没する。作風はおおむねロマン派音楽の範疇に属するが、古典主義的な形式美を尊重する傾向も強い。
一部には、ブラームスをしてベートーヴェンの後継者ととらえる人もおり、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評した。
== 生涯 ==

ハンブルクで生まれる。彼に最初の音楽レッスンを行った父は、市民劇場のコントラバス奏者であった。後年になってブラームスが語った話によれば、家の表札には「Brahmstブラームスト)」と書かれていたという〔 『ブラームス回想録集 第二巻 ブラームスは語る』(音楽之友社、2004) p.102〕。子供の頃から「ブラームス」と頭に刷り込まれていたブラームスは、最後の「t」が嫌で、表札をしょっちゅう指でこすり、しまいには消してしまった。このせいで父に届いた親方献呈合格証は「ブラームス」と書かれたものになった〔。ブラームス曰く、「親父がtを取るように、少しずつ慣れさせたんだよ〔。」このブラームスの話が冗談なのか実話なのかは不明だが、実際に「Brahmst」と書かれた1849年4月14日の「音楽の夕べ」のプログラムが残っている〔『ブラームスは語る』(音楽之友社、2004) p.103〕。
ピアノの早熟な才能を現し、10歳で作曲家でピアニストのエドゥアルト・マルクスゼンに師事。レストラン居酒屋でピアノを演奏することによって家計を支えた。ブラームス自身はピアニストとして確かな腕を持っていたが、同時代の名手と比べると地味な存在であり、後に作曲専業になることを決意してほとんど演奏活動からは手を引く。しかしながら、1859年1881年には、ピアノ協奏曲第1番ピアノ協奏曲第2番の初演を自ら行っている。
その後、作曲を始めたものの、1851年になるとすでに自己批判から作品を廃棄し始めていた(19歳以前の作品は記録が残るのみでまったく現存しない)。1853年にハンガリーのヴァイオリニスト・エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことが創作活動に大きな影響を及ぼした。この旅行中に ヨーゼフ・ヨアヒムフランツ・リストロベルト・シューマンに会って作品を見てもらった。シューマンは、「新しい道」と題する評論を「新音楽時報」誌に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、聴衆にブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。ブラームスは14歳年上のシューマンの妻クララと知り合い、1854年のシューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡って親しく交流を続けることになった。1855年ごろのクララへの手紙の中で彼女のことを「君」と表現するなど、恋愛に近い関係になったと推測される時期もあったようだが、ブラームスが彼女と結婚することはなかった。またアガーテ・フォン・ジーボルト(いわゆる『シーボルト事件』で著名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの従兄弟の子に当たる)と婚約しながら、「結婚には踏み切れない」との理由で一方的に破談にしたこともある。
1862年からウィーンに居着いたブラームスは以降、作曲に集中し始め、『ドイツ・レクイエム』などの作品で高い評価を確立し、偉大な作曲家の一人として注目を集める存在となり、ウィーン音楽院でも講座を持つようになった。ウィーン移住からおよそ10年後の1876年に、19年の歳月をかけた交響曲第1番を完成させた。この作品は後に指揮者のビューローをして「ベートーヴェンの10番目の交響曲の様だ」と語らしめた。彼の他の3つの交響曲は、それから比較的短い間隔で書き上げられ、第1番から間もない1877年には第2番が、1883年第3番が、そして1885年に最後の第4番が、それぞれ発表された。
ブラームスはしばしば春のイタリアを訪問し、気持ちの良い地方の場所を捜して夏の間に作曲した。1889年12月2日トーマス・エジソンの代理人の依頼で『ハンガリー舞曲第1番』とヨーゼフ・シュトラウスのポルカ・マズルカ『とんぼ』を蓄音機に録音した〔ハンガリー舞曲は当初録音を恥ずかしがったブラームスがさっさと演奏を始めてしまい、立会人があわてて「1889年12月、(リヒャルト・)フェリンガー博士邸、ただいまの演奏はブラームス博士!ヨハネス・ブラームスのものだ」と叫んでいるのが冒頭にかぶっている。テンポは相当速かった。〕。これは、史上初の録音(レコーディング)とされている。このときのピアノ演奏で、初めて自身の老いを自覚したと言われている〔1997年8月31日TBS系列で放送された『過ぎし日のブラームス~没後100年に聴く幻のピアノ録音~』(北海道放送製作)でこの説が唱えられている。この番組では、北海道大学伊福部達らにより蝋管のレーザー光線による再生が試みられたが、蝋管自体の損傷が酷く、貧弱な音しか得られなかった。〕。翌1890年、57歳になり意欲の衰えを感じたブラームスは作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めた。
しかし彼は自身の決心を守ることが出来なかった。クラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に触発されて創作意欲を取り戻したブラームスは、クラリネット三重奏曲(作品114)、クラリネット五重奏曲(作品115、1891年)、2つのクラリネット・ソナタ (ヴィオラ・ソナタ)(作品120、1894年)を書き上げた。そして、『7つの幻想曲』(作品116、1891年)から『4つの小品』(作品119、1892年)までの4つのピアノ小品集、『4つの厳粛な歌』(作品121、1896年)などの傑作を生み出した。これらの作品は、晩年の寂寥と宗教的境地に満ちていると評価されている。また、1890年ごろにはの演奏も聞いており、当時出版された日本の民謡集の楽譜に書き込みが残されている〔研究者の間では、当時オーストリアの全権公使だった戸田氏共夫人極子(1859年-1936年)がウィーン公使館において琴を演奏したのをブラームスが聴いたのではないかと言われている(関東大震災により戸田邸が全焼したため、上記の楽譜以外に確証といえるものは残っていない)。この出来事を題材として、日本画家・守屋多々志は「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」(平成4年第77回院展出品、大垣市守屋多々志美術館所蔵)を描いた。また、上記の『過ぎし日のブラームス~没後100年に聴く幻のピアノ録音~』でもこの話が取り上げられた。〕。
1897年4月3日肝臓癌によりウィーンで逝去した。63歳没。遺体は中央墓地に埋葬された。ハンブルクの生家は長く残っていたが、1943年7月のハンブルク空襲で焼失し、現在は記念碑がある。
ブラームスはフリーメイソンであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヨハネス・ブラームス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Johannes Brahms 」があります。




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