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フランクリン遠征 : ミニ英和和英辞書
フランクリン遠征[ふらんくりんえんせい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ランク : [らんく]
 【名詞】 1. rank 2. (n) rank
: [とお]
  1. (adj-no) distant 
遠征 : [えんせい]
  1. (n,vs) (1) expedition 2. campaign 3. (performer's) tour 4. (2) away series (baseball) 

フランクリン遠征 : ウィキペディア日本語版
フランクリン遠征[ふらんくりんえんせい]

フランクリン遠征(フランクリンえんせい、)は、1845年にイングランドを出発したイギリス北極海探検航海であり、ジョン・フランクリン海軍大佐が指揮していた。フランクリンはイギリス海軍の士官であり、経験を積んだ探検家だった。過去に3回北極海に遠征しており、その2回目と3回目は隊長を務めていた。4回目がこの遠征であり、引き受けたときは59歳になっていた。遠征の目的は、カナダ北極諸島を通ってヨーロッパとアジアを結ぶ北西航路の中で、まだ航海されていない部分を横断することだった。しかし遠征の初期に幾つかの問題が発生した後、遠征隊の2隻の船がカナダ北極圏キングウィリアム島に近いビクトリア海峡で、氷に閉ざされてしまい、フランクリンを含む隊員129名全員が失踪した。
遠征隊がヨーロッパ人によって最後に視認されたのは1845年だった。イングランドの海軍本部はフランクリンの妻ジェインらに懇願されて、1848年、行方不明となっていた遠征隊を捜索するための部隊を出発させた。フランクリンの名声が高かったこと、および海軍本部が遠征隊の発見者に報酬を出すと発表したこともあって、多くの者達が捜索に加わり、1850年のある時点ではイギリス船11隻、アメリカ船2隻が関わっていた。これら船舶の幾らかは、乗組員3人の墓など、遠征隊の遺物が初めて発見されたビーチー島の東海岸沖に集中した。1854年、探検家ジョン・レイが犬ぞりでキングウィリアム島南東の海岸近くを調査しているときに、イヌイットからフランクリン隊の遺物を取得し、多くの白人が氷上の行軍中に飢え死に、仲間の肉を食べた跡まであったという末路についての話を聞いた。1859年にフランシス・レオポルド・マクリントックが率いた調査により、フランクリン遠征隊の隊員が船を捨てるに至った詳細を記したメモをキングウィリアム島で発見した。19世紀の残り期間も調査は続けられた。
1981年、アルバータ大学人類学教授オーウェン・ビーティが率いた科学者チームが、ビーチー島とキングウィリアム島でフランクリン遠征隊の隊員が残した墓、遺体など物的証拠に関する一連の科学的研究を始めた。ビーチー島で見つかった墓の隊員の死因は肺炎で、おそらくは結核で死んだ可能性が強く、さらに船の食料倉庫に収められていた缶詰はんだ付けがまずかったために、鉛中毒で健康を悪化させた可能性があることも分かった。しかしその後、この鉛の出どころは缶詰の食料ではなく、遠征隊の船に取り付けられた水の蒸留装置だったことが示唆された〔Battersby, William, "Identification of the Probable Source of the Lead Poisoning Observed in Members of the Franklin Expedition ", ''Journal of the Hakluyt Society'', 2008. Retrieved 25 November 2008.〕。キングウィリアム島で見つかった人骨の切断面からは、人肉食を行った痕跡がみられた。研究の全ての結果を合わせると、低体温症、飢え、鉛中毒、壊血病などの病気、さらには適切な衣類や栄養が無いままに過酷な環境に曝されたことで、隊員全員の死に繋がったことが推測された。
ヴィクトリア期のマスコミは、フランクリンの遠征隊が失敗し、人肉食の話が出てきたにも拘わらず、フランクリンを英雄扱いしていた。フランクリンに関する歌が書かれ、その彫像が生まれ故郷のロンドンタスマニアに建てられ、北西航路の発見者にされた。フランクリン隊の話は歌、詩、短編小説、小説、さらにはテレビのドキュメンタリー番組など多くの作品の対象とされてきた。
== 背景 ==

ヨーロッパ人が、ヨーロッパからアジアまで最短距離(大圏航路)で結ぶ海の近道を探すのは、1492年のクリストファー・コロンブスの航海が始まりであり、その後は19世紀半ばまで、主にイングランドから一連の探検隊が極地を通る最短の海路(北西航路北東航路)を探した。これらの航海はそれぞれ成功の程度は異なるものの、西半球、特に北アメリカについてヨーロッパ人の地理的知識を増やしていった。その知識が深まるに連れて、次第にカナダ北極圏に関心が向くようになった。16世紀から17世紀に北アメリカについて地理的な発見をした航海者達は、マーティン・フロビッシャージョン・デイヴィスヘンリー・ハドソンウィリアム・バフィンなどがいた。1670年、法人化したハドソン湾会社がカナダ海岸と内陸、および北極海をさらに探検した。18世紀の探検家としては、ジェイムズ・ナイト、クリストファー・ミドルトン、サミュエル・ハーン、ジェームズ・クックアレグザンダー・マッケンジージョージ・バンクーバーがいた。1800年までに最終的にわかったのは、太平洋大西洋の間の温暖な緯度の範囲内はすべて大陸でふさがれており、船が航行できるような北西航路はこの範囲内には無いということだった〔Savours (1999), pp. 1–38〕。
1804年、ジョン・バロウ卿が海軍本部副大臣となり、その職を1845年まで長期にわたって務めた。バロウはイギリス海軍を突いて、カナダの北の北西航路、さらには北極点への航路を極めさせようとした。その後の40年間の探検家としては、ジョン・ロス、デイビッド・ブキャン、ウィリアム・エドワード・パリー、フレデリック・ウィリアム・ビーチー、ジェイムズ・クラーク・ロスジョージ・バック、ピーター・ウォーレン・ディーズ、トマス・シンプソン等がカナダ北極圏で意義ある航海を行った。これら探検家の中にジョン・フランクリンがいた。1818年、''ドロシー''と''トレント''で北極を目指した遠征では副指揮官となり、1819年から1822年と1825年から1827年の2回、陸路カナダの北極海沿岸に進んだ遠征では隊長だった〔Savours (1999), pp. 39–166〕。1845年までに、それまでの遠征隊が発見したこと全てから、カナダ北極圏で未踏の地域は約181,300 km2の四角形が残されているだけになっていた〔Savours (1999), p. 169〕。この年にフランクリンが航海することになったのがこの未踏領域であり、ランカスター海峡から西に進み、その後は氷、陸、その他障害物が許す限り西と南に進んで、北西航路を完成させる意図があった。航行距離は約1,670 km だった〔Cyriax (1939), pp. 18–23〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フランクリン遠征」の詳細全文を読む




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