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フラマン人 : ミニ英和和英辞書
フラマン人[フラマンじん]
【名詞】 1. a Fleming 2. Flemish person
===========================
フラマン人 : [ふらまんじん]
 【名詞】 1. a Fleming 2. Flemish person
ラマ : [らま]
 【名詞】 1. (1) (Dalai) Lama 2. (2) llama 3. (P), (n) (1) (Dalai) Lama/(2) llama
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1
フラマン人 : ウィキペディア日本語版
フラマン人[ふらまんじん]

フラマン人()は、北フランスベルギーに起源をもつ、オランダ語を話すゲルマン民族である。主にフランデレン地域フランドル)の北部にみられる。ベルギーの二つの主要民族の一つであり、もう一方はフランス語を話すワロン人である。〔英語では〕「フレミング」とも呼ばれるかれらは、ベルギー住民の多数派(人口の約60%)を構成している。歴史上、「フラマン人」〔フランドル人、フランデレン人〕とは中世のの住民を指し、トゥルネー(今日ではワロン地域)、リールドゥエー(今日ではフランドル・フランセーズ)あたりの地域の、ワロン・フラマン人()とも称されるフランス語を話すフランドル人やピカルディ語を話すフランドル人も含んでいた。
== 歴史 ==
「フラマン人」への帰属意識はベルギー独立革命の後に著しく増大した。それ以前はオランダ語で「フラマン人」に相当する言葉はそもそもかつてのフランドル伯領の住民に対して使われていた。しかしながら14世紀以降、フラマン語は、フランドルとブラバント公国の両方の人々の言語と方言群のことをいうようになった〔Lode Wils. De lange weg van de naties in de Lage Landen, p.46. ISBN 90-5350-144-4〕。イタリア人15世紀に両地域の人々を という言葉で表すようになり、イギリス人フランス人16世紀には追従する形となった。別々の領邦に属しているにも拘わらず、何らかの形で共通のアイデンティティを有しているという感情は中世にはすでに存在していた。古い例としては、1339年以来、両国の主要な都市によって、かれらの支配者の下で課せられたフランドル=ブラバント協同条約 () を挙げることができる〔Lode Wils, p34-37〕。留意すべきは、現代のベルギーのリンブルフ州はかつてはフランデレン(フランドル)に含まれず、19世紀に入ってからフランデレンとみなされるようになったことである。
1830年ネーデルラント連合王国の南部諸州が独立を宣言した。南部の急速な産業化が南北間の経済格差を際立たせる中、フランス語の方言を話す人々、そして官吏やエリート階層もまた、オランダ支配下での自らの地位と自治とが失われることを恐れた。(1794年-1815年)の下では、フランス語が公の場での唯一の公用語として強制され、結果としてエリート階層がフランス化し、そしてそれほどではないにしても中産階級のフランス化も生じた。ネーデルラント王はオランダ語とフランス語の両方言をフランドル諸州の行政上の言語として使用することを認め、また、学校教育でオランダ語を復活させる法を定めた〔E.H. Kossmann, ''De lage landen 1780/1980. Deel 1 1780-1914'', 1986, Amsterdam, p. 128〕。言語政策だけが分離の理由ではなかった。。最終的にベルギーの自由主義者たちは、専制的であったと伝えられるウィレム1世のふるまいに不満を募らせた。
反乱後の1823年の言語改革は、廃止されることになる最初のオランダ語の法律であり、その後の何年かでオランダ語の使用を制限する数々の法律が発布されることになる〔Jacques Logie, ''De la régionalisation à l'indépendance, 1830'', Duculot, 1980, Paris-Gembloux, p. 21〕。この政策は、漸進的なの台頭を招いた。それは、南部のフランスびいきのエリート層を批判した書物(例えば18世紀後半の著述家 Jan-Baptist Verlooy の著作)に表現されたような、従来からある反フランス感情の不公平感に基づいていた。以後150年に亘るこの運動は、19世紀末以降の法律上のフランドルの社会的・政治的・言語的平等の創出に少なからず影響を与えている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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