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ピロー砦の戦い : ミニ英和和英辞書
ピロー砦の戦い[ぴろーとりでのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [とりで]
 (n) fortress
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ピロー砦の戦い : ウィキペディア日本語版
ピロー砦の戦い[ぴろーとりでのたたかい]

ピロー砦の戦い(ピローとりでのたたかい、)また特に北部ではピロー砦虐殺(ピローとりでぎゃくさつ、)は、南北戦争中の1864年4月12日に、テネシー州ヘニングのミシシッピ川沿いピロー砦で行われた戦闘である。この戦闘では、降伏したアフリカ系アメリカ人の部隊に対する虐殺が、南軍ネイサン・ベッドフォード・フォレスト少将によって遂行されたのか、あるいは見過ごされたのかについて大きな議論を呼んだ。軍事歴史家のデイビッド・J・アイヒャーは「ピロー砦はアメリカの軍事史の中で最も暗く悲しい出来事の一つとなった」と結論付けた〔。
== 背景 ==
ピロー砦はテネシー州メンフィスの40マイル (64 km) 北にあり、1862年初期にギデオン・ジョンソン・ピロー将軍が建設し南北戦争の両軍が使用していた。ニューマドリードとアイランドNo.10が北軍に陥落したときの1862年6月4日に、南軍が他の部隊から孤立しないために砦を放棄した。北軍は6月6日に砦を占領し、メンフィスへの川からの接近に対して守るために使った。

砦は高い崖の上にあり、半円状に配置された3本の塹壕線で守られ、奥行き4フィート (1.2 m)、高さ6ないし8フィート (1.8-2.4 m) の胸壁には回りに溝が掘られていた(戦闘中、厚い胸壁はその上に登らなければ接近する敵兵に発砲できず、上に居れば敵の銃火の標的にされたために、実際には不利であることが分かった。同様に砦に6門あった大砲は、敵が接近してしまうと砲弾を撃ち込むことが難しいことも分かった)。ジェイムズ・マーシャル艦長が指揮する北軍の砲艦USS''ニューエラ''も防衛のために使うことができた〔U.S. Congress JCCW, p. 3.〕。
1864年3月16日、フォレストは7,000名の騎兵を率いて西テネシーとケンタッキー州への1ヶ月にわたる騎兵襲撃を発した。その目的は、北軍の捕虜や物資を捕獲し、メンフィスの北にあるケンタッキー州パデューカの前哨基地と砦を破壊することだった。フォレストの騎兵軍団は「西テネシーおよび北ミシシッピ騎兵方面軍」とも呼び、ジェイムズ・R・チャルマーズ准将(ロバート・V・リチャードソン准将とロバート・M・マカロック大佐の旅団)およびエイブラハム・ビュフォード准将(タイリー・H・ベル大佐とA・P・トンプソン大佐の旅団)が率いる2個師団で構成された。

この遠征の中で2つの重要な戦闘があり、その最初のものは3月25日のパデューカの戦いで、フォレスト部隊がパデューカの町とその軍事物資にかなりの被害を与えた。3月後半と4月初旬にはこの地域で数多くの小戦闘が起こった。フォレストは補給物資を必要としており、約1,500〔Foote, p. 108.〕ないし2,500名〔NPS website〕の騎兵を伴ってピロー砦に進む作戦を立てた(フォレストはビュフォードに任せた配下の一部を再度パデューカを攻撃するために派遣していた)。フォレストは4月4日に、「ピロー砦には500ないし600名の北軍兵がおり、我々が欲しい馬や物資を持っているので、1日か2日で形をつけてこよう」と記していた〔Eicher, p. 655.〕。

ピロー砦の守備隊は約600名であり、アフリカ系アメリカ人と白人がほぼ同数だった。黒人兵は第2アメリカ有色人種軽砲兵隊と第6アメリカ有色人種重砲兵隊に所属し、全体指揮はライオネル・H・ブース少佐が執った。多くは元奴隷であり、南軍に対して敗北すれば良くても即座に奴隷の身分に戻るという帰結を理解していた。白人兵はウィリアム・F・ブラッドフォード少佐が指揮する西テネシーの北軍連隊、第13テネシー騎兵隊の大半が新兵だった

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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