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パーシー・フェイス : ミニ英和和英辞書
パーシー・フェイス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

パーシー・フェイス : ウィキペディア日本語版
パーシー・フェイス[ちょうおん]
パーシー・フェイスPercy Faith, 1908年4月7日 - 1976年2月9日)はアメリカ合衆国作曲家編曲家指揮者音楽プロデューサーである。カナダトロントで生まれ、イージーリスニングムード音楽分野で著名である。
== 概要 ==
8人兄弟の長男として生まれる。幼少期より音楽に親しみ、ヴァイオリンピアノを演奏しクラシック音楽ピアニストを目指していたが、18歳の時、マッチから妹の洋服に燃え移った火を手で消火したことにより両手に大火傷を負い、ピアニストになることを断念した。その後作曲家へ転向し、編曲手法も学び頭角を現す。当初はトロントでホテルオーケストラなどを指揮し、1933年に専属の編曲兼指揮者としてカナダ放送協会と契約。担当番組「ミュージック・バイ・フェイス」は好評で7年間続いた。1940年にアメリカへ招聘されて「カーネーション・コンテンティッド・アワー」指揮者の急死による代役を3週間務め、好評により契約を延長してアメリカに留まり約2年後にアメリカの市民権を得る。
1944年から録音作品の制作を開始し、後年デッカA&Rとして活動するが、1950年にに請われてアメリカのコロムビアレコードへ移籍して東部担当ミュージカルディレクターとして活動する。自身も1975年までムード・ミュージック・オーケストラとして活動し、「」、「」、「夏の日の恋」の3曲が全米ヒットチャートで1位になる。「夏の日の恋」はマントヴァーニらのムード・ミュージックと流行中のロックンロールを融合させ、1960年に全米ヒットチャートで9週連続1位になり同年のグラミー賞を受賞している。ミュージカルディレクターとしてトニー・ベネットドリス・デイローズマリー・クルーニージョニー・マティス等の編曲やバック・オーケストラ指揮を務めている。
日本へは、1960年に単身で初来日して日本のオーケストラを指揮演奏し、自らのオーケストラによる来日公演は1966年1971年1973年1974年、1975年の5回で、1966年公演はNHK総合テレビFMラジオで放送し、1974年公演はライブ録音がLPレコードCBSソニーが発売している。
1928年に妻メアリー〔1909年11月24日生まれ、1997年11月27日ロスアンゼルスで死去。〕と結婚してマリリンとピーター二人の子を儲け、1976年2月9日にカリフォルニア州がんにより死去し、同州カルバーシティに埋葬されている。
日本では現在ソニー・ミュージックエンタテインメントとビクターエンタテインメントから“パーシー・フェイス”名義のCDが発売されているが、ビクター発売分はパーシー死後に別指揮者で新規録音された内容で、アーティスト名英文表記“Percy Faith Orchestra”の前に“The”付加されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「パーシー・フェイス」の詳細全文を読む




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