翻訳と辞書
Words near each other
・ ハレンの巨城 (ゲーム・オブ・スローンズ)
・ ハレンキルヒェ
・ ハレンキルヘ
・ ハレンシュタディオン
・ ハレンチ
・ ハレンチ☆パンチ
・ ハレンチグループ
・ ハレンチパンチ
・ ハレンチ・パンチ
・ ハレンチ地帯をあばく-裸にされたイギリス
ハレンチ学園
・ ハレンチ学園 (テレビドラマ)
・ ハレンチ教師
・ ハレ・アン・デア・ザーレ
・ ハレ・イン・ヴェストファーレン
・ ハレ・ヘンデル音楽祭
・ ハレー
・ ハレーすい星ロボQ
・ ハレーアルマダ
・ ハレーウォーズ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ハレンチ学園 : ミニ英和和英辞書
ハレンチ学園[はれんちがくえん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [がく]
 【名詞】 1. learning 2. scholarship 3. erudition 4. knowledge 
学園 : [がくえん]
 【名詞】 1. academy 2. campus 
: [その]
  1. (n,n-suf) garden (esp. man-made) 2. park 3. plantation 

ハレンチ学園 : ウィキペディア日本語版
ハレンチ学園[はれんちがくえん]

ハレンチ学園』(ハレンチがくえん)は、永井豪による日本ギャグ漫画作品、及びこの作品を原作とするテレビドラマ映画1968年11号から1972年41号まで『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて連載された。
== 概要 ==
当時の少年漫画としては過激な表現で物議を醸し社会現象になった、永井豪の出世作であり代表作の一つである。
手塚治虫高橋留美子山本直樹吾妻ひでおなどに多大な影響を与えた事でも知られる。
便宜上、内容によって大きく3部に分けられる。
第1部連載中期の1969年(昭和44年)14(7/24)号にて「モーレツごっこ」を登場させ、スカートめくり流行の一因となった。
1970年1月8日と9日、『朝日新聞』『毎日新聞』が『ハレンチ学園』を紹介したことで、多くの大人の知ることになり、本作を巡る騒ぎが拡大したものと見られる。なお、『朝日新聞』は永井本人や擁護派の意見も載せており、『毎日新聞』も紹介程度の内容であり、本作を一方的に非難するという記事ではない〔竹内オサム『戦後マンガ50年史』筑摩書房、1995年、p.99。〕。
主に問題とされたのは2点、性描写と教師批判である〔竹内オサム「マンガの差別・発禁・規制の事件史」『誌外戦』コミック表現の自由を守る会編、創出版、1993年、p.122。〕。
1970年1月に三重県四日市市の中学校長会が問題視し、四日市市少年センターが三重県議会に有害図書指定を働きかけるが実現には至らなかった〔中村紀、大久保太郎「漫画の事件簿 漫画と社会、激闘の歴史50年」『まんが秘宝 つっぱりアナーキー王』洋泉社、1997年、pp.194-196。〕。同年には福岡県でも問題になった〔竹内オサム『戦後マンガ50年史』筑摩書房、1995年、p.132。〕。『少年ジャンプ』編集部へも、各地のPTA教育委員会から多数の苦情が寄せられた〔西村繁男『さらばわが青春の『少年ジャンプ』飛鳥新社、1994年、p.155〕。
PTA等からの激しい批判の標的となり、作者の人格攻撃にまで発展。ただ永井本人としては、学生時代に教諭が女子生徒の体を触り、その場は教諭個人の冗談を含む一過性の性的揶揄と思ったが、後で隠れて泣いている女子生徒を目の当たりにし、その目撃談を元にデフォルメして作品を描いたという経緯であって、糾弾にまで至った事に困惑していた。
一方、批判ばかりでなく擁護の声もあり、『週刊少年ジャンプ』で活躍していた教育評論家の阿部進はその筆頭であった。阿部は会合に出かけて議論すると共に、テレビ出演して擁護を行った。『毎日新聞』は1970年1月19日の社説で規制に疑問を呈し、2月6日の記事でも子供の精神発達の阻害になる可能性は少ないとの記事を掲載し、『少年ジャンプ』編集部には読者から多数の応援の手紙と電話が寄せられたという。警視庁少年防犯関係者は、「大したことはない」と問題視していなかった〔〔〔〔西村繁男『まんが編集術』白夜書房、1999年、p.100〕。
後年の永井は、当時の糾弾者達は、ハレンチ描写よりも、余りに理想の教師像からかけ離れた教師達の描写を問題視したのではないかという推測を述べている。評論家の石子順造や編集部員だった西村繁男も同様に、教師という権威をからかったのが怒りを買ったのだと見ている〔〔石子順造『戦後マンガ史ノート』紀伊國屋書店、1980年、p.154〕。
これを逆手に取り、1970年に連載されていた第1部後半では「ハレンチ大戦争」と題するハレンチ学園と「大日本教育センター」の教育関係者たちとの戦争に突入した。この批判派(=既存権力側)対漫画(=若者・子供)の構図は、敵も味方もなくただ倒れていくのみという激しい展開を生む。永井は、当時の教育制度に対しての痛烈な皮肉と、戦争を生むのは醜い人間の欲望と偏った思想であるとの思いを込め、この戦争描写を展開させた〔『永井豪クロニクル』ゼスト、1998年、p.56。〕。
一方、ギャグ漫画としては、神である作者に死の不条理を拒否し異議を申し立てるというメタフィクション的なギャグまで生み出した。

1970年日活で映画として映像作品化。他にも数社から映画化の話が持ち込まれたが、日活を見込んで永井本人が選択したが、その出来には落胆したと語っている。読者からもイメージが違うとのクレームが永井に寄せられた〔永井豪『漫画家』実業之日本社、1992年、p.149-150。〕。
同年には、日活板の監督だった丹野雄二が東京12チャンネル:現テレビ東京に企画を持ち込んでテレビドラマ化された。こちらの主演の児島美ゆきは好評を得たと永井は述べている〔。「大戦争」と同時期の作品だけに原作とした話は比較的大人しい連載初期が元になっていたため、当時としては挑発的なハレンチ描写こそあれど、物語の構造自体はあくまで学園内の大人と子供の戦い程度の図式に留まり、原作のような過激な展開は見せていない。
2010年より『週刊漫画ゴラク』(日本文芸社)で連載されている永井豪の自伝的漫画『激マン!』において、主人公である「ながい激」は『ハレンチ学園』の連載を終了することになったのは、主に当時連載の始まった『デビルマン』の執筆で異常なまでに体力を消耗するので連載を減らしたいと思ったことであるとし、ジャンプ側に対し、第1部で主要キャラクターの多くが死んでしまったことやストーリーが迷走し始めたこと、などが理由であると説得している。ジャンプ側は連載終了を渋ったものの、男一匹ガキ大将の台頭もあってか、結局連載終了は円満に認められる事になった〔『激マン!』デビルマン編第12話(単行本第2巻収録)〕。
しかし、実際には『ハレンチ学園』最終回の翌週から『少年ジャンプ』で『マジンガーZ』の連載が開始されたため、すぐには連載作品を減らすことはできなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハレンチ学園」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.