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ニューヨーク・シティ・バレエ団 : ミニ英和和英辞書
ニューヨーク・シティ・バレエ団[にゅーよーくしてぃばれえだん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ニューヨーク : [にゅーよーく]
 【名詞】 1. New York 2. (n) New York
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [だん]
 【名詞】 1. body 2. group 3. party 4. company 5. troupe

ニューヨーク・シティ・バレエ団 : ウィキペディア日本語版
ニューヨーク・シティ・バレエ団[にゅーよーくしてぃばれえだん]

ニューヨーク・シティ・バレエ団 ()は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンに本拠を置くバレエ団。略称はNYCB。芸術監督はペーター・マルテンス、所属ダンサーは90人〔2011年6月現在。プリンシパル24名、ソリスト12名、コール・ド・バレエ54名。〕。
主舞台はリンカーン・センター内のD・H・コーク劇場 (旧称:ニューヨーク州立劇場)。夏季には州北部のサラトガ・スプリング市でも公演が行われる。
== 沿革 ==
1933年、米国の舞踊評論家リンカン・カーステインが欧州からジョージ・バランシンを招き、アメリカン・バレエ学校(School of American Ballet)を創設したのが始まりである。
この学校は米国でバレエを発展させたいと願っていたカーステインが、まずダンサーの育成から始めるべしというバランシンの主張を容れて作ったものだった。1935年3月にはその生徒と卒業生によってアメリカン・バレエ (The American Ballet) の名称で最初の公演がおこなわれた〔1935年3月1日。会場はマンハッタンのアデルフィ劇場、演目はバランシン振付の『セレナーデ』『夢』など。このときの第2プログラムの詳細は次を参照。 Global Performing Arts Database
なお、1934年6月の時点ですでにアメリカン・バレエ学校生徒による公演は行われていたが、そのときの名称はまだ "アメリカン・バレエ学校創作バレエ団" であった。 cf. NYCB Repertory - "Serenade". 〕。企画・経営はカーステイン、監督・振付はバランシンという体制は以後も続くことになる。
同年秋にメトロポリタン・オペラ劇場の専属バレエ団となったが、1938年に契約を解消〔バランシンは当初、故郷のマリインスキー劇場と雰囲気が似ているメトロポリタン歌劇場を気に入っていたが、歌劇場の経営陣がバレエの予算を出し渋り、リハーサルではオケの演奏をつけさせずピアノだけで済ませるなどしたため、次第に両者の関係は悪化した。 cf. Bernard Taper, ''Balanchine'' , pp.165-168., 1996, U. of California Press.
なおメトロポリタン時代の作品に『オルフェオとエウリディーチェ』(1936年)、『カルタ遊び』(1937年原版)などがある。前者はC・W・グルックのオペラをバレエ化した作品で、声楽も動員するものであったが結局失敗に終わり、現在はレパートリーに残っていない。〕。これにともないバレエ団は一旦解散した。
カーステインは1936年3月に別働隊としてバレエ・キャラバン(Ballet Caravan) という小バレエ団を組織し新人の活躍舞台としていたが、こちらも1940年9月に解散。この間バレエ学校は常時存続していた。1941年、両者が再生合同して新生のアメリカン・バレエとなり、国務省支援による中南米巡演をおこなった。しかし帰国後の同年11月に再び解散〔戦時中カーステインは米陸軍に徴集され兵士として従軍した。("Lincoln Kirstein ", ''Monuments Men Foundation'')〕。
戦後の1946年バレエ協会 (Ballet Society) として復活し、会員制によるバレエ公演を再開する。1948年4月にはニューヨーク・シティ・センターと契約して専属バレエ団となり今日の名称となった。元ABTJ・ロビンズが助監督に就任し、1950年代には欧州や日本〔来日は1958年3月。新宿コマ劇場ほかで『セレナーデ』『ウエスタン・シンフォニー』などが上演された。cf. 日本洋舞史年表I・1900-1959. 〕に巡演して評価を高めた。による支援も受けて活動は続き、1964年に現在の本拠地であるニューヨーク州立劇場へ移転した〔この劇場はバレエ用の劇場として設計段階からバランシンの要望を聞いて作られた。バランシンの指示によって座席はえび茶色に統一されたほか、竣工直前にオーケストラ・ピットが拡大されたという。杮落しもバランシンのバレエ作品だった。 cf. NYCB - "Fun facts about David H. Koch Theater". 〕。
創設以来バレエ団を率いてきたバランシンの志向を反映して、厖大な数の抽象バレエ作品をレパートリーに持っている。『放蕩息子』や『真夏の夜の夢』など物語のある作品もあるが、英国ロイヤル・バレエ団などに比べるとその比率は少ない。作曲家別ではストラヴィンスキーの作品が多いのも特徴である。ダンサーは傘下のアメリカン・バレエ学校出身者がほとんどで、動きや体型まで含めた独自の基準で採用されている。
1981年にバランシンが病気で倒れると、指名によってプリンシパルのP・マルテンスが後継バレエマスターとなった。現在でも年間に2〜3のペースで新作が作られ、バランシン作品の復刻上演もおこなわれているが、近年の新作は小品ばかりで方向性が見えず全体的に質が低下しているといった批判も出てきている〔例えば次を参照。Robert Gottlieb, "City Ballet, Balanchine And a Legacy Imperiled" , ''The New York Observer'', 21 July 2002〕。
2008年以降、ボリショイ・バレエ団の芸術監督を退いてABTに移籍したA・ラトマンスキーに依頼して新作をいくつか作らせている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ニューヨーク・シティ・バレエ団」の詳細全文を読む




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