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ニコライ・ゴーゴリ : ミニ英和和英辞書
ニコライ・ゴーゴリ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ニコライ・ゴーゴリ : ウィキペディア日本語版
ニコライ・ゴーゴリ[ちょうおん]

ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリウクライナ語:ウクライナ語名ではムィコーラ・ヴァスィーリョヴィチ・ホーホリ。〕 / ロシア語: ; 1809年4月1日ユリウス暦3月20日) - 1852年3月4日)は、ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家。ウクライナ人。戸籍上の姓は、ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)である。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で知られる。''〔ウクライナ語名ではムィコーラ・ヴァスィーリョヴィチ・ホーホリ。〕 / ロシア語: 1809年4月1日ユリウス暦3月20日) - 1852年3月4日)は、ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家。ウクライナ人。戸籍上の姓は、ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)である。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で知られる。''; 1809年4月1日ユリウス暦3月20日) - 1852年3月4日)は、ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家。ウクライナ人。戸籍上の姓は、ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)である。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で知られる。
== 生涯 ==
ウクライナのソロチンツィの小地主の家に生まれる。ソ連時代のゴーゴリ研究によると、先祖はヤノーウシクィイ(ロシア語:ヤノフスキー)姓で、ウクライナの聖職者であったが、祖父の代(18世紀後半)に至り、婚姻によって領地を得、地主となった。1783年エカチェリーナ2世がウクライナに農奴制を導入するに伴い、貴族の称号を持たない者には地主としての土地と農奴の所有が許されなくなったため、フメリニツキーの乱に参加したウクライナ・コサック連隊長であるオスタープ・ホーホリ(ロシア語:オスタープ・ゴーゴリ)なる人物を、自家の系図の筆頭に据え、姓もホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)と改めた〔青山太郎著『ニコライ・ゴーゴリ』(河出書房新社、1986年9月)21-22ページ。〕。父親のヴァスィーリ・ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ワシーリー・ゴーゴリ=ヤノフスキー)は、アマチュア劇作家で、ウクライナ語による劇作品を2篇遺している。
1818年、弟イワンと共に親元を離れ、ポルタヴァの小学校に入学。翌年弟が死去し、深い衝撃を受ける。1821年ネージンの高等中学校に寄宿生として入学。在学中は学業よりも絵画と文学に熱中し、また父譲りの演劇の才を発揮して、学校劇では老け役や吝嗇漢を演ずるのを得意とした。卒業後、1828年サンクトペテルブルクに移り、長詩『ガンツ・キュヘリガルテン』をV・アロフなる筆名で自費出版するが、酷評され、失望のあまり国外へ逃亡する。同年、ペテルブルクに舞い戻り、俳優を志すが失敗し、かろうじて下級官吏の職を得る。この時期の、薄給に喘ぐ貧寒な生活の経験は、都市の下層民や小役人や俗物たちを描くのちの「ペテルブルクもの」と呼ばれる作品群に活かされることになる。1830年、『ビザヴリューク、あるいはイワン・クパーラの前夜』を匿名で発表、不遇のうちにも詩人ジュコーフスキーや、ペテルブルク大学総長で詩人・批評家のピョートル・プレトニョフの知遇を得る。1831年には愛国女学院に職を得て生活も安定し、同年5月、ジュコーフスキーの紹介でアレクサンドル・プーシキンと会う。プーシキンはゴーゴリの才能を評価し、以後、親交を持った。同年9月、当時流行のウクライナのフォークロアに取材した『ディカーニカ近郷夜話』(第1部1831年、第2部1832年)を出版し、一躍人気作家となる。1834年から1835年までペテルブルク大学で歴史を教える。その後、ウクライナ物を集めた『』や、ペテルブルクを舞台にした『肖像画』、『ネフスキー大通り』、『狂人日記』、『鼻』などの中編小説(ポーヴェスチ、)で文名はいよいよ高まる。1836年の戯曲『』によってその名は広く一般に知られるところとなるが、その皮肉な調子は非難の対象となり、それを避けてゴーゴリはローマへ発った。途中パリでプーシキンの訃報を知り、衝撃を受ける(1837年)。これ以降彼は、教化と予言とによってロシア民衆を覚醒させ、キリスト教的な理想社会へと教え導くことこそが自己の使命であると痛感するようになる。
ゴーゴリはその残りの人生の大部分をドイツイタリアで過ごした。その頃の手紙によって、ゴーゴリには同性愛的傾向があったと言われる〔(1924-2009)の研究による。
Simon Karlinsky ''"The Sexual Labyrinth of Nikolai Gogol"'' Cambridge, 1976.〕。1839年に恋人の突然の死を経験するが、その事件が彼の後半生にどのような影響を与えたのかについては未だ謎が多い。『死せる魂』と『外套』を書いたのはこの頃のことである。『死せる魂』第一部は1842年に刊行された。ゴーゴリにとって、第一部は克服すべきロシアの腐敗を描いた序章にすぎず、第二部・第三部において主人公チチコフの成長と魂の救済、美と調和を体現する理想のロシアが描かれる筈であった。しかし、執筆は遅々として進まず、1845年、苦悶のあまり第二部の草稿を火中に投じる。1847年、『友人との往復書簡選』〔全32章の日本語訳は『ゴーゴリ書簡集 作者の懺悔』原久一郎訳(鎌倉文庫、1949年7月)。〕を出版。その頑迷で教条的な説教と、帝政と農奴制を賛美する反動思想とにより、ベリンスキーをはじめそれまでゴーゴリを高く評価してきた多くの支持者を失う。1848年、次第に信仰にのめり込んでいたゴーゴリはエルサレム巡礼に旅立つ。エルサレムより戻った後、聖職者コンスタンティノフスキーの影響のもと、信仰生活のために文学を棄てることを決心し、書き溜めてあった『死せる魂』の第二部をふたたび焼いてしまう。彼がモスクワで歿したのはその10日後、1852年3月4日のことだった。『死せる魂』の第二部は、その一部が残されており、刊行されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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