翻訳と辞書
Words near each other
・ トルクメン・マナト
・ トルクメン人
・ トルクメン人 (イラク)
・ トルクメン共和国
・ トルクメン料理
・ トルクメン語
・ トルクレンチ
・ トルクヮート・タッソー
・ トルクーヤ
・ トルク勾配法
トルク族
・ トルク法
・ トルク締め
・ トルグート
・ トルグート部
・ トルケスタニカ
・ トルケスタン
・ トルケスタン軍管区
・ トルゲイル・ブランツェ
・ トルコ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

トルク族 : ミニ英和和英辞書
トルク族[とるくぞく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

トルク : [とるく]
 torque

トルク族 : ウィキペディア日本語版
トルク族[とるくぞく]
トルク〔田中陽兒『世界歴史体系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p96等〕〔中村喜和訳『モノマフ公の庭訓』// 『ロシア中世物語集』p116〕族() は、10世紀から13世紀にかけて、黒海北部のステップ地帯にいたテュルク系遊牧民の1部族である〔中村喜和訳『ロシア中世物語集』p358〕。
==歴史==
トルク族はレートピシ(ルーシの年代記)に記される部族の1つである。古くは985年、トルク族の傭兵キエフ大公ウラジーミルによる、ブルガール族ハザール族に対する遠征に参加している。その後東方のポロヴェツ族に圧迫されたトルク族は、11世紀の初めに遊牧生活を営みながらドニエプル川流域へと移動し、結果ルーシ領と接することとなった。それに対し、キエフ大公フセヴォロド1055年にルーシ領(ペレヤスラヴリ公国領)の防衛のためにトルク族を攻めた。続く1060年にはイジャスラフスヴャトスラフフセヴォロドフセスラフらの連合軍がトルク族を攻め、ドン川周辺へと追いやっている。ただし12世紀になると、トルク族は再びドン川周辺から到来し、ルーシ領と接している。1116年、トルク族とペチェネグ族は2日間にわたってポロヴェツ族と戦い、ウラジーミル・モノマフ(当時ペレヤスラヴリ公)の元へと逃れてきた。しかし1121年に、モノマフが遊牧民ベレンデイ族をルーシから追放すると、トルク族とペチェネグ族は自ら去った。
一方、トルク族の一部は11世紀からローシ川沿岸(ポロシエ)の地も占拠しており、これらのトルク族はルーシの公に従属し、都市トルチェスクを中心として半定住化した。また、ドニエプル川左岸には別のトルク族の集団が定住しており、かれらはペレヤスラヴリ公国による支配を承認していた。12世紀の史料によれば、かれらは都市バルチ(現ウクライナ・バルィシィウカ(ru))付近の地に居住していた。これらポロシエやペレヤスラヴリ公国に定住したトルク族は、ペチェネグ族、ベレンデイ族らの他のルーシに従属する遊牧民の部族と併せて、チョールヌィ・クロブキという名称で呼ばれた。トルク族を含むチョールヌィ・クロブキは、ポロヴェツ族の侵入に対抗しきれずにルーシに庇護を求め、かつ1つに集団化したものである〔田中陽兒『世界歴史体系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p163〕。かれらは騎馬傭兵部隊となり〔田中陽兒『世界歴史体系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p56〕、ポロヴェツ族の侵入に対する国境(ルーシ諸公国の国境)の守備軍や、キエフ大公の遠征軍に参加した。さらに別の一部のトルク族にはドナウ川を越え、ビザンツ帝国民となったものがある。
モンゴルのルーシ侵攻に際し、1240年にポロシエは破壊にさらされた〔田中陽兒『世界歴史体系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p145〕。残ったトルク族の居住区は、スラヴ系住人の居住区と同化した。ステップ地帯に住んでいたトルク族は、後のウクライナ人の一部に含まれたとされている〔Гумилёв Л. Н. От Руси до России. — М.: Айрис-пресс, 2011. — С. 250. 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「トルク族」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.