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トゥーレ : ミニ英和和英辞書
トゥーレ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

トゥーレ : ウィキペディア日本語版
トゥーレ[ちょうおん]

トゥーレギリシャ語: Θούλη, ラテン文字表記は様々ある: Thile, Tile, Tilla, Toolee, Tylen, Thula, Thyle, Thylee, Thila, Tila など)は、古典文学の中で語られる伝説の地で、通常は島である。古代ヨーロッパの説明や地図によれば、トゥーレは遥か北、しばしばアイスランドの〔ボストック&ライリー (1893) 352 ページ ( 第30章 (16) – ブリタニア ) :
「古代トゥーレの存在に関する見解は、極端に多かった。」
1829年にアジャソン・ド・グランサーニュ( Ajasson de Grandsagne )によりフランス語に翻訳されたプリニウスの本Ⅳに6つのメモがある。これはボストック&ライリーにより引用句として一語一語とられている。
*"トゥーレはアイスランドの島である。" ブルトン (1875) pages 1, 25.
*"トゥーレはフェロー諸島、もしくはアイスランドの島の1つである。" ブルトン pages 22-23.
*"オルテリウス、ファーナビー、シェニングによれば、トゥーレはノルウェーテレマルク県のあたりである。" ブルトン page 25.
*"マルテ・ブリューンの考えでは、トゥーレはデンマークの大陸部分で、今日ティ( Thy )と呼ばれる地方である。" フォザリンガム (1862) page 497.
*"リュドベックとカルストンは、プロコピウスに賛同し、トゥーレはスカンディナヴィア全体の別名であると考えている。" グランサーニュ (1829) page 338:"L'idée de Rudbeck ... et de Calstron ... due originairement à Procope, qui ... a prononcé nettement que sous ce nom était comprise toute la Scandinavie." プロコピウス Book III No. 4 典拠
*"トゥーレとはシェトランド諸島の中心地、メインランド島を意味するとゴスランという人物は考えた。"ゴスラン"もしくは"M. ゴスラン"の言葉と、フランス革命時に始まった彼の記念碑的作品は、多く模倣されたが、これは誤りであった。"M."は''Monsieur''(ムッシュ)を表すにしても、そのような地質学者は存在しないのである。アメリカ議会図書館の図書目録には次のような項目がある。 この4冊の作品は今日では珍しく入手不可能である。この見解は Volume I page 162 、タイトル''Thulé''の記述にあったといわれる。
ボストックとライリーは続けてこう述べている。「トゥーレの名のもと、異なる時代の、別々の著者が、地理的知識も異なる状況で、実は2ヶ所かそれ以上の場所について記述していたというのも、決してあり得ないことではない。パリゾが論じたように、プトレマイオスの言及したトゥーレはノルウェーのThylemarkだとかなり一般的に認識されている。」〕、恐らくはオークニー諸島シェトランド諸島スカンジナビアにあると、また中世後期やルネサンス期にはアイスランドやグリーンランドにあると考えられていた。
またそれとは別に、バルト海サーレマー島のことだという考え方もある〔古代伝説のカアリ隕石に関する考察 〕。
中世地誌におけるアルティマ・トゥーレは、「既知の世界の境界線」を越えた、世界の最果てを意味することもある。「アルティマ・トゥーレ」をグリーンランドの、「トゥーレ」をアイスランドのラテン名として使用する人もある。


==古代地理学==
トゥーレについての最初の記述は、ギリシアの探検家ピュテアスの『大洋''On the Ocean''』に見られる。紀元前330年から320年の間に彼が行った旅行の手記であるが、これは現在は失われている。
彼は恐らくギリシアのマッサリア(現在のマルセイユ)により、取引の商品の由来を確かめるために派遣されたと思われる〔L・スプレイグ・ディ=キャンプ (1954)。『失われた大陸』p. 57. 〕。彼の発見に関するいくつかの記述は残存するものの、その内容については疑わしいものも多い。
例えば、ポリュビオスによる紀元前140年の著書『歴史』の XXXIV 巻に、ピュテアスに言及する部分がある。「彼の記述は多くの人々を間違った方向に導いた。彼はブリテン全体を徒歩で横断したと述べ、その外周を4,000スタディアとした。また彼はトゥーレについても、その伝説の地には地面や海や空気の区別がなく、その3つが混然となった、歩くことも航行することもできない、全てが混ぜ合わさった、いわばクラゲのようなものだ」と述べている〔ポリュビオス ''Book XXXIV'' 〕。
ギリシアの地理学者で歴史家のストラボン(紀元前64年頃 - 紀元前23年頃)は著書の『地理書』(I 巻 第4章 )でトゥーレに触れ、エラトステネスの「人が住んでいる世界の幅」の計算や、ピュテアスの「ブリテンから北へ帆航6日、凍った海の近く」の注釈について記述している。しかし彼はこの主張に疑問を呈し、「詳細な調査をすると、ピュテアスは大嘘つきだと分かった。ブリテンとイエルネ(アイルランド)を見たことのある人々は、他の小さな島々やブリテンについて話すことはあっても、トゥーレについて話すことはなかった。」と書いている。ストラボンはまた、次のようにも(II 巻 第5章 )述べている。

マッサリアのピュテラスはトゥーレについて語り、そこはブリテン諸島の最北よりも遥かに北、そこでは夏至の太陽軌道が北極圏並だという。しかし、私の過去の読書範囲では、他にトゥーレについて記述してる人はいない。はっきりとトゥーレという名で呼ばれている島がある訳でもなく、夏至の太陽軌道が北極圏並みの北方に人が居住可能な訳でもない。

ストラボンはIV 巻 第5章 を次のように締めくくっている。「我々が知りうるトゥーレに関する過去の情報からは、その存在位置さえはっきりしない。そのためトゥーレと、その名で呼ばれる全ての国は、最北の果てにあるとされる。」
それからほぼ半世紀を経た77年大プリニウスが著書『博物誌』を出版し、その中で彼もまたピュテアスの「ブリテンの北に航行6日」という主張(Ⅱ巻 第75章)に触れている。
またIV 巻 第16章 でブリテン周辺の島々について議論する際には、次のように記述している。「話題に出てきたうち、最も遠いのがトゥーレである。そこでは驚いたことに真夏、太陽がかに座のあたりを通過する頃には夜が全く訪れず、逆に真冬には、昼が全く訪れない。そしてそれが恐らく一日中あるいは一晩中、それぞれ6か月ずつ続くのである。」最後には島の位置について、彼の解説した場所から真北の果ての地と推定し、VI巻 第34章 に次のように記述している。「リーフェイの丘からスキタイ方向に真っ直ぐ北上するとトゥーレにいたる。そこでは日夜が6ヵ月ごとにやってくる。」
オロシウス(384-420 A.D)やアイルランドの修道士ディクイル(8世紀後期から9世紀初期)のような他の古典派文筆家や古典期以降の文筆家も、トゥーレはアイルランドやブリテンの北や西にあると記している。ディクイルは、トゥーレがフェロー諸島と思われる島々の向こうに存在すると記述し、強くアイルランドを示唆した。
歴史家プロコピオスの6世紀前半の著書によれば、トゥーレは大きな島で、25の種族が居住しているという。実際にはプロコピウスの述べたトゥーレは、スカンディナヴィアのことだと思われる。というのは、いくつかの種族が簡単に特定され、その中にはゲータ人サーミ人が含まれているのである。彼はまた、3世紀から5世紀に渡って活躍したヘルール族ランゴバルド人に敗れて帰還する際、ヴァルニ族やデーン人をやり過ごし、海をトゥーレに渡り、そこでイェーアト族の近くに住みついたと書いている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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