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デビッド・ロイド・ジョージ : ミニ英和和英辞書
デビッド・ロイド・ジョージ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

デビッド・ロイド・ジョージ : ウィキペディア日本語版
デビッド・ロイド・ジョージ[ちょうおん]

初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵、デビッド・ロイド・ジョージ(, 、1863年1月17日 - 1945年3月26日)は、イギリス政治家貴族
1890年自由党議員として政界入り。1905年以降の自由党政権下で急進派閣僚として社会改良政策に尽くす。彼の主導によりイギリスに老齢年金制度や健康保険制度、失業保険制度が導入された。
第一次世界大戦中の1916年12月に総辞職したアスキス首相に代わって首相に就任。強力な戦争指導体制と総力戦体制を構築してイギリスを勝利に導いた。パリ講和会議に出席するなど戦後処理も指導し、戦間期ヴェルサイユ体制の構築に大きな役割を果たした。1921年にはアイルランド大英帝国自治領としての独立を認めた(アイルランド自由国)。1922年大連立を組んでいた保守党の離反で総辞職に追い込まれた。
首相退任後は自由党の没落もあって権力から遠ざかっていったが、政治活動は衰えず、ケインズ主義経済政策を確立して公共事業の拡大を訴えた。また晩年には反独派から親独派に転じた。
== 概要 ==
1863年イングランドマンチェスターに生まれる。幼くして父を失い、ウェールズ・の母方の伯父のもとに身を寄せる。伯父は非国教徒のウェールズ愛国者で自由党を支持する中産階級者だった。ロイド・ジョージもウェールズ民族主義の影響を受けて、国教会保守党・大地主に対する反抗心を培って育った。
小学校卒業後、1878年から弁護士事務所で書生として働く。1884年に弁護士資格を取得し、弁護士事務所を独立開業する。弱者のための弁護活動を多く行い、とりわけ国教会の墓地への非国教徒の埋葬が拒否された事件における非国教徒の弁護活動でウェールズ民族主義者として名を馳せるようになる。
1890年にの補欠選挙に自由党候補として出馬し、庶民院議員に初当選する。議員生活初期の頃は自由党議員としてより、ウェールズ選出の議員として行動することが多く、ウェールズの教会を国教会から独立させることを盛んに訴えた。また地主に打撃を与えることを目的に禁酒運動にも取り組んだ。1899年には老齢年金に関する庶民院特別委員会の委員となり、老齢年金制度導入の提言を行ったが、同年に勃発した第二次ボーア戦争で流産した。同戦争への反戦運動を主導し、それによって知名度を上げる。1902年にはバルフォア教育法への反対運動を主導した。
1905年12月にヘンリー・キャンベル=バナマンを首相とする自由党政権が成立すると通商大臣として入閣した。1908年4月に首相がハーバート・ヘンリー・アスキスに代わると大蔵大臣に転任する。1908年7月には制定を主導し、70歳以上の高齢者に年金を支給する無拠出老齢年金制度を創出した。その財源確保のため、自由帝国主義派閣僚が訴えていた海軍増強に反対した。社会保障費やドイツ帝国との建艦競争によって増大した財政支出を補うため、1909年4月には所得税累進課税性強化、相続税増額、土地課税など富裕層から税金を取り立てる「」を議会に提出する。保守派や地主貴族から強い反発を招き、11月に貴族院で否決されたが、や議会法の法案提出を挟んで、1910年4月に成立させることに成功した。1911年にはの制定を主導し、これによりイギリスに健康保健制度と失業保険制度が創出された。1912年にはがの建設を受注した件でインサイダー取引を行ったという疑惑を受けて政治生命を失いかけたが、なんとか乗り切った()。
第一次世界大戦が勃発した直後には参戦に反対していたが、まもなく参戦派に転じた。反戦派最大の大物閣僚である彼の転向によってアスキス内閣は参戦を決定した。1915年5月に自由党・保守党の大連立によるアスキス挙国一致内閣が成立すると新設されたに就任し、軍需産業への政府介入の強化に務めた。
さらに1916年6月に敵対していた陸軍大臣キッチナー伯爵元帥が死亡すると代わってに就任する。好転しない戦局や軍部が議会政治家の言うことを聞かない状況に焦燥し、優柔不断なアスキス首相を戦争指導から遠ざけて強力な戦争指導ができる政府を樹立する必要性を痛感するようになった。1916年12月、保守党党首アンドルー・ボナー・ローの支持を得て、自分を委員長とした少数閣僚による軍事委員会を作ることをアスキス首相に要求した。アスキスが応じないのを見ると辞職を表明した。保守党閣僚たちも辞職を表明したため、アスキス内閣は総辞職に追い込まれた。
組閣の大命を受け、自由党ロイド・ジョージ派と保守党に支えられたを組閣し、大戦後半戦を主導した。総力戦体制を強化すべく、を新設して食料配給制に移行した。を新設して商船の政府統制を強化し、商船を船団にして海軍に護衛させ、ドイツ海軍の無制限潜水艦作戦に対抗した。西部戦線の膠着状態を破るための塹壕突破兵器として戦車の開発も急がせた。また女性の銃後の活躍を認めて、戦時中の1918年2月に普通選挙と30歳以上の婦人に選挙権を付与する選挙法改正を行った。
ロシア革命によりロシアの政権を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボルシェヴィキ政権が1918年2月に独断でドイツと講和して戦争から離脱すると、アメリカ日本などとともに反ソ干渉戦争を開始した。戦後には干渉戦争への関心を無くすも、反共主義者の陸軍大臣ウィンストン・チャーチルや保守党からの強い要望で1919年秋までは続行した。1920年のソビエトのポーランド侵攻でもポーランドを支援したが、ポーランド侵攻が失敗に終わった後の1921年には世界に先駆けてソビエトと通商条約を締結した。
1918年11月にドイツ政府が連合国との休戦協定に応じたことで第一次世界大戦は終結した。戦勝気分の冷めぬうちにと12月にも解散総選挙を行った。政権派の候補にはロイド・ジョージと保守党党首ボナー・ロー連名の推薦状(クーポン)が手交されたため、クーポン選挙と呼ばれた。選挙の結果は政権側(とりわけ保守党)の大勝に終わった。
1919年1月からパリで行われた講和会議に出席し、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンやフランス首相ジョルジュ・クレマンソーらとともに会議を主導してドイツに付きつける講和条件を決定した。6月にドイツ政府にこれを飲ませてヴェルサイユ条約を締結したことで戦間期ヴェルサイユ体制が構築された。オスマン帝国に対してはセーブル条約を結ばせて同国の支配していたアラブ地域を英仏で分割した。イギリスはパレスチナイラクを獲得した。これにより大英帝国は中東をかつてないほど強力に支配することになった。
アイルランド独立を目指すシン・フェイン党に対しては白色テロをもって厳しく弾圧したが、融和的態度も示し、1921年10月にはシン・フェイン党幹部と交渉してアイルランドに大英帝国自治領アイルランド自由国としての独立を許した。
1921年10月のワシントン会議には外相アーサー・バルフォアを派遣したが、アメリカの圧力に屈する形で日英同盟を事実上破棄した。
1922年8月から9月のチャナク危機にはトルコとの開戦も辞さない強硬姿勢を貫いて外交勝利を得たものの、再度の戦争を嫌がる国内世論から批判を集めた。この事件はロイド・ジョージの「ワンマン政治」にかねてから不満を抱いていた保守党議員から離反されるきっかけとなり、10月19日には保守党社交界における保守党議員の投票で大連立解消の決議がなされた。ロイド・ジョージはこれ以上の政権運営不可能と判断してただちに総辞職した。
退任後、自由党が労働党の後塵を拝する第三党に没落していくことに危機感を抱き、自由党アスキス派との関係改善に乗り出した。1923年12月の解散総選挙では両派合同して選挙戦に臨んだものの第三党の状態から抜け出すことはできなかった。1926年末にアスキスが政界引退すると代わって自由党党首となったが、旧アスキス派のロイド・ジョージ不信は根強く、これを機に多くの自由党員が自由党を離党したため、自由党が再び大政党となるのは難しい情勢となった。
ジョン・メイナード・ケインズをブレーンとするロイド・ジョージは1920年代末からイエローブックやオレンジブックを発行して公共事業による有効需要増加と雇用創出を訴えるようになった。第二次世界大戦後に先進資本主義国で主流となるケインズ主義の先駆けであったが、この段階では保守党からも労働党からも相手にされることはなかった。
保守党に操られたラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣に協力したがる自由党議員が多いことに失望して、1931年に自由党党首職を辞した。以降は政界の一匹狼となったが、引き続き公共事業拡大を訴え続けた。1933年1月にドイツで公共事業拡大による失業対策を訴えるナチ党が政権を掌握したことも好意的に見ており、以降親ナチス派として行動した。もっともドイツが対外進出路線を強めるとネヴィル・チェンバレンの融和政策を批判するようになった。第二次世界大戦中の1940年5月に彼が庶民院で行った演説がチェンバレン失脚・チャーチルの首相就任の一因となった。
1944年末にドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵に叙されるも1945年3月26日には死去した。
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抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「デビッド・ロイド・ジョージ」の詳細全文を読む




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