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タマニー協会 : ミニ英和和英辞書
タマニー協会[かい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [きょう]
  1. (n-suf,n-pref) cooperation 
協会 : [きょうかい]
 【名詞】 1. association 2. society 3. organization 4. organisation 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 

タマニー協会 ( リダイレクト:タマニー・ホール ) : ウィキペディア日本語版
タマニー・ホール[かい]

タマニー・ホールTammany Hall)とは1790年代から1960年代にかけてに存在したアメリカ民主党派閥、関連機関。慈善団体タマニー協会Tammany SocietySociety of St. TammanySons of St. TammanyColumbian Orderとも)を前身とし、19世紀初頭にはニューヨーク市議会における民主共和党勢力の中心として台頭するが、本部機能を有するホールが東14丁目に完成した1830年頃から民主党に合流。以後、当時拡大の一途を辿っていた移民居住地区を票田としながら、同市政を牛耳るマシーンにまで成長を遂げる。1854年フェルナンド・ウッドから1932年ジョン・P・オブライエンに至るまで市長を輩出したほか、1928年には幹部でニューヨーク州知事アル・スミスが民主党の大統領候補に選出され殷賑を極めた。
一方、買収及び供応を含む移民に対する集票工作が政治腐敗を招き、1800年代半ばのウィリアム・M・トウィードが会長を務めていた時代には悪名を轟かせるなど、「タマニー・ホール」と言えば票の買収操作の代名詞となる。こうして20世紀に入ると市政改革運動や1934年の市長選で共和党及び民主党内の改革派が共同で擁立した候補(フィオレロ・ラガーディア)に敗北したのを契機に勢力が減退。1950年代カルミネ・デサピオにより小規模ながら再興が成ったものの、1960年代にはエレノア・ルーズベルトハーバート・レーマンら民主党内の反主流派によるニューヨーク民主党有権者委員会の内紛劇を経て活動を停止した。
== 歴史 ==

=== 1789年-1850年 ===
タマニー・ホールの前身たるタマニー協会は、1772年フィラデルフィアで結成された関連諸団体の一地方支部として、1789年5月12日マンハッタン家具職を営んでいたウィリアム・ムーニーThe History of New York State 〕を初代会長に据えニューヨークにて設立〔Frederick Webb Hodge, editor, ''Handbook of Indians North of Mexico'' (Washington: Smithsonian Institution, Bureau of American Ethnology Bulletin 30. GPO 1911), 2:683-684〕。タマニーの語源は植民地時代のデラウェアに居住していたアメリカ先住民レナペ族の首領タマネンド(セント・タマニー)に由来するものであるが、独立戦争時には独立を志向する愛国派グループの名に用いられて以来一般にも広まった〔斎藤眞他監修『新訂増補 アメリカを知る事典』平凡社2000年1月、p.286〕。こうした事情から協会は先住民族の語や習慣までをも取り入れており、とりわけ本部のあるホールは「ウィグワム」(樹皮・獣皮などを張った先住民族の小屋の意)と呼ばれたほか、代表者は「サチェム」(アメリカ先住民族の首領の意)と称した。
慈善団体として出発した協会も1798年までには政治色を帯び、非協会員のアーロン・バー〔が会長に就任したのを切っ掛けとして政治的マシーンに変貌し、市政では民主共和党の中心にまで登り詰める。バーは自身が副大統領に当選した1800年の大統領選で協会をフル活用したこともあり、協会が無ければ現職のジョン・アダムズが再選されていたであろうと言われている〔Parmet and Hecht 149–150〕。民主共和党が解散した1829年以後は民主党に合流し市議会を牛耳るようになるが、この間協会の新たな本部が「タマニー・ホール」として東14丁目に完成。ホールの名が団体名として広く知られ始めたのはこの頃のことである。
1830年代には民主党内に反独占を標榜する分派ロコフォコスが誕生、労働者階級へのアピールを通じて協会への一大抵抗勢力となった。しかしその中にあっても、1830年代から1840年代を通じて、増え続ける移民の支持を以って政治的支配を一層強め、票田を確固たるものとしてゆく。なお、ニューヨークは1686年から1938年まで最小の行政区画として(ward、現在のものとは異なることに注意)制を敷いていたが、これに合わせ区毎に移民の世話と集票と請け負うボスが叢生した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「タマニー・ホール」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tammany Hall 」があります。




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