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スレイマン1世 : ウィキペディア日本語版
スレイマン1世[すれいまん1せい]

スレイマン1世(, , 、 1494年11月6日 - 1566年9月6日)は、オスマン帝国の第10代皇帝(在位:1520年 - 1566年)。9代皇帝セリム1世の子。
46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導いた。英語では「壮麗帝(the Magnificent)」のあだ名で呼ばれ、日本ではしばしばスレイマン大帝と称される。トルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備したことから「立法帝(カーヌーニー、 , )」のあだ名で知られている。
名前のスレイマン(Süleyman)とは、ユダヤ教キリスト教と共にイスラム教でも聖典とされる旧約聖書に記録された古代イスラエルの王、「ソロモン王」のアラビア語形である「スライマーン」(, Sulaymān)のトルコ語発音である。
またオスマン帝国の歴史において「スレイマン」の名を持つ最初の皇帝であることから「スレイマン1世」と呼ばれるが、まれにバヤズィト1世アンカラの戦いティムールに敗れた直後にエディルネで君臨したバヤズィト1世の長男スレイマン・チェレビーを1世に数えることがあるので、その場合は「スレイマン2世」と呼ばれることもある。
== 生涯 ==

=== 周辺領域の鎮定 ===
1494年11月6日、セリム1世の息子としてアナトリア半島北東のトラブゾンで誕生。マムルーク朝を滅ぼしてシリアエジプトアラブ地域を初めて征服した父が不在の間は所領として宛がわれたマニサの軍事長官を務めていたが、父が在位わずか8年で1520年に没すると首都イスタンブルへ帰還・即位した。前回と前々回のスルタン死去の際には熾烈な後継者争いがあり、後継者になれなかった王子やその子らがほとんど全員処刑されるといった経緯があったが、セリム1世死去の際にはそうした争いはなく、スムーズにスレイマン1世が即位した。スレイマンの他の男児の記録はないことから、スレイマンが唯一の後継者候補だった可能性が示唆される。
若くして東ヨーロッパから中東にまたがる帝国の支配者となったスレイマン1世は即位の同年にシリア知事の反乱に直面、翌1521年にアナトリア中央でイランサファヴィー朝に通じた部族の反乱も勃発したが、スレイマン1世はいずれも1521年の内に鎮圧して足元を固め、ヨーロッパ方面に向けた遠征を計画した〔三橋、P23 - P26、P32 - P33、クロー、P35 - P45、林、P118 - P121。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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