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ジョン・ロックフェラー : ミニ英和和英辞書
ジョン・ロックフェラー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ロック : [ろっく]
  1. (n,vs) (1) lock 2. (2) rock 3. (P), (n,vs) (1) lock/(2) rock
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョン・ロックフェラー : ウィキペディア日本語版
ジョン・ロックフェラー[ちょうおん]

ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(John Davison Rockefeller, Sr、1839年7月8日 - 1937年5月23日)は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。スタンダード・オイルを創業し、同社は石油市場を独占し、アメリカ初のトラストを結成した。石油業界を変革し、現代的フィランソロピーの構造を定義した。1870年にスタンダード・オイルを創業したロックフェラーは、積極的な経営を行い、その後1897年に事実上引退した。スタンダード・オイルはオハイオ州で、ジョンと弟、、、化学者、によって創設された。ケロシンガソリンの需要の高まりと共に富も膨れ上がっていき、アメリカ人初の10億ドルを越える資産を持つ人物となった〔フォーチュン誌の富豪一覧 によれば、ロックフェラーの資産はGDPの65分の1とされている。Retrieved 20 August 2009.〕。物価の変動を考慮すると、史上最大の資産を持つ富豪とされている。
慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に引退後の40年間、資産の大部分を使った。医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した。彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症黄熱病の根絶に貢献した。また、シカゴ大学ロックフェラー大学を創設し、フィリピンにの創設資金を提供した。
熱心なバプテスト信者であり、生涯に亘って米国バプテスト同盟を支援した。彼は酒とタバコを嗜まなかった〔''John D. Rockefeller'', by Albro Martin, ''Encyclopedia Americana 1999'' Vol. 23〕。
== 前半生 ==

ニューヨーク州で、(1810年11月13日 - 1906年5月11日)とその妻イライザ・デイヴィソン(1813年9月12日 - 1889年3月28日)の6人の子供の2番目として生まれた。系図学者は、祖先の一部はフランスのユグノーで、17世紀にドイツに逃れたとしている〔Scheiffarth, Engelbert: ''Der New Yorker Gouverneur Nelson A. Rockefeller und die Rockefeller im Neuwieder Raum.'' Genealogisches Jahrbuch, 9 (1969), pp. 16–41〕。父はかつて林業を営んでいたが、巡回セールスマンとなり「植物の医師」(botanic physician) を名乗ってエリキシールを売り歩いた。近所の人々はそんな珍しいもの好きの父を "Big Bill" とか "Devil Bill" と呼んだ。旅に出ていることが多く、家には闖入者のように時折帰ってくるだけだった。父は生涯に亘って真面目に働こうとせず、常に一山当てようと目論んでいるような男だった。イライザは信心深いバプテストであり、夫が不在の間家庭を維持するため奮闘した。夫は頻繁に外に女を作り、時には重婚していたこともあるが耐え抜いた。自然に倹約が常となり、息子には「故意の浪費は悲惨な欠乏を招く」と教え込んだ。若きロックフェラーも家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして家計を助けた。「小皿を大皿と交換しろ」という父の助言に従い、彼は常に取引で有利になることを心がけていた。父は「チャンスがあれば息子達も騙す。そうして奴らを敏感にしたい」と言っていた。
少年のころ一家でニューヨーク州モレイビアに引越し、1851年にはさらに同州オウィーゴに引越しており、オウィーゴでは学校に通っている。1853年、クリーブランド近郊のストロングスビルに移った。クリーブランド中央高校で学び、商業専門学校で10週間のビジネスコースを受講し簿記を学んだ〔Ellen Greenman Coffey, Nancy Shuker, ''John D. Rockefeller, empire builder'' (Silver Burdett, 1989), pg. 18, 30〕。
父の不在と頻繁な転居にも関わらず、ロックフェラーは行儀がよく、真面目で、熱心な少年に育った。当時を知る人は彼を、控え目で真面目で信心深く几帳面で分別があったと評している。議論がうまく、正確に自分の考えを表現できた。また音楽好きで、将来それで身を立てたいという夢を持っていた。早くから算術と経理の才能を発揮した。
1855年9月、16歳のとき、製造委託会社 Hewitt & Tuttle にて簿記助手の職を得た。長時間働き、そのオフィスの仕事の全てに精通するようになる。特に輸送費の計算に熟達し、そのことが後々大いに役立った。最初の3カ月間の給料は50ドル(1日あたり50セント)だった。当初から給料の約6%を寄付しており、20歳のころには10%をバプテスト教会に寄付している。
若いころ、10万ドルを貯めることと100歳まで生きることが目標だと語っていたという。
1859年、資本金4,000ドルでモーリス・B・クラークと共に製造委託会社を設立。そこで着実に利益を上げていった。食料品の卸売りからはじめ、1863年には当時クリーブランドの工業地域だった「ザ・フラッツ」に建設される製油所に投資した。この製油所を直接所有していたのは Andrews, Clark & Company で、クラークとロックフェラーと化学者とクラークの2人の兄弟が創業した会社である。石油産業は揺籃期だった。鯨油が大量に使用するには高価すぎるものとなり、安価な燃料が必要とされていた時代である。
兄フランクが南北戦争で戦っているころ、ロックフェラーは彼の事業も引き継いでいる。北部の裕福な人々が戦う代わりに北軍に資金提供したように、彼も北軍に資金提供した。石油産業史に詳しいダニエル・ヤーギンが重要だと指摘した出来事が1865年2月に起こった。クラークと対立したロックフェラーが持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解消し、精油事業(彼の会社が持っていた精油所は、処理能力が1日に原油500バレルであった。)を72,500ドルで買収したのである。その買い取った権利を基に、化学者のアンドリュースとロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立した。ロックフェラーも後に「その日、私の経歴が決定した」と述べている。南北戦争後、鉄道の成長と石油に支えられ西部に向かって開発が進んでいった中、ロックフェラーはよい位置にいた。多額の借金をし、利益を再投資し、市場の変化に迅速に対応していった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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