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ジョン・ドライデン : ミニ英和和英辞書
ジョン・ドライデン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジョン・ドライデン : ウィキペディア日本語版
ジョン・ドライデン

ジョン・ドライデンJohn Dryden1631年8月9日 - 1700年5月12日)は、イングランド詩人文芸評論家劇作家王政復古時代のイングランド文学を支配し、その時代が「ドライデンの時代」として知られるほど影響力の大きい人物であった。
== 前半生 ==
ドライデンは、ノーサンプトンシャー州オーンドル(Oundle)近郊のオールドウィンクル(Aldwinkle)村の、祖父が諸聖司祭を務めていた牧師館で生まれた。ジョンは、ピューリタン運動と議会を支援するピューリタンのジェントリであったエラズマスとメアリーのドライデン夫妻の間に生まれた14人兄弟の長男であった。ドライデンは少年時代を近くのティッチマーシュ(Titchmarsh)村で過ごし、この地で初等教育も受けたようである。1644年に彼は王室奨学金学生(King's Scholar)としてウェストミンスター校に入学した。当時の校長は、カリスマ派の教師で非常に厳格な人物でもあったリチャード・バスビー博士であった〔Hopkins, David, ''John Dryden'', ed. by Isobel Armstrong, (Tavistock: Northcote House Publishers, 2004), 22〕。エリザベス1世によって再建されて間もない当時のウェストミンスター校は、王室主義やイングランド教会主義を奨励する様々な宗教的・政治的精神を内包していたが、ドライデンと同時代のジョン・ロックの穏やかな影響はまだ取り込まれていなかった。このことに対するドライデンの反応として、彼は明らかに校長を尊敬しており、後に2人の息子をウェストミンスター校に入学させている。
人文学系のグラマースクールであったウェストミンスター校は、学生に修辞学と主張の発表についての訓練を行うカリキュラムをもっていた。この技術がドライデンの身に付き、後の著作や考え方(その多くからこれらの弁証法的な様子が見られる)に影響を及ぼした。ウェストミンスターのカリキュラムには週ごとの翻訳の課題もあり、これがドライデンの飲み込みの良さを作りだした。このこともまた後の作品に表れている。ウェストミンスターで過ごした時期はドライデンに何も起きなかったというわけではなく、詩が初めて出版されている。その詩は、学友が天然痘で亡くなったことに対する王党員的な雰囲気が感じられるエレジーであり、1649年1月30日に行われたチャールズ1世の処刑についてもほのめかされている。
1650年にドライデンはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学し、そこで子供時代の宗教的・政治的精神への回帰を経験したようである。トリニティ・カレッジの校長はピューリタンの牧師であるトマス・ヒルという人物で、ドライデンの故郷の村の教区司祭でもあった〔''John Dryden The Major Works'', ed. by Keith Walker, (Oxford: Oxford University Press, 1987),ix-x〕。ドライデンの学生時代には特徴的な情報はわずかしかないが、古典学・修辞学・数学の普通課程を学んだようである。1654年に彼はBA学位試験を受け、首席でトリニティ・カレッジを卒業した。その年の6月に父が亡くなり、彼にはいくたりかの土地が遺された。この土地は多少の収入源にはなったが、居住するには不充分なものであった〔Ibid, x〕。
護国卿政さなかのロンドンへ移ったドライデンは、クロムウェルの国務大臣であったジョン・サーローの同僚となった。この役職は、ドライデンの代理として彼の従兄弟のチェンバレン公ギルバート・ピッカリング卿が行使した影響の結果であるとされる。ドライデンは1658年11月23日に行われたクロムウェルの葬儀に出席し、ピューリタンの詩人であるジョン・ミルトンアンドリュー・マーヴェルらとともに参列した。その後間もなく、彼は最初の重要な詩作「英雄的スタンザ」(''Heroique Stanzas'', 1658年)を発表した。これはクロムウェルの死に対する頌徳文で、その感情的表現が慎重になされている。1660年にドライデンは王政復古チャールズ2世の帰還を、本式の王党派の頌徳文である「''Astraea Redux''」で祝福した。この詩において、空位期間は乱世として描写され、チャールズ2世は平和と秩序を復活させた人物として見られている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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