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ジェームス・クック : ミニ英和和英辞書
ジェームス・クック[くっく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
クック : [くっく]
 【名詞】 1. cook 2. (n) cook

ジェームス・クック ( リダイレクト:ジェームズ・クック ) : ウィキペディア日本語版
ジェームズ・クック[くっく]

ジェームズ・クック(、 1728年10月27日 - 1779年2月14日)は、イギリス海軍士官海洋探検家海図製作者。通称キャプテン・クック (Captain Cook)。
一介の水兵から、英国海軍の (''Post Captain'') に昇りつめた〔ネルソンの時代(1800年前後)の英国海軍には、水兵から士官(海尉と航海長を指すと思われる)に這い上がった男が120人存在し、そのうちの22人が勅任艦長となり、22人のうちの3人が提督、最終的には海軍大将まで上り詰めた(「風雲の出帆 - 海の覇者トマス・キッド 1」、ハヤカワ文庫、2002年、508頁、訳者の大森洋子によるあとがき)。1814年、ナポレオン戦争が終わろうとしていた年、最大規模にあった英国海軍は、戦列艦99隻、フリゲイト以下505隻を現役で運用し、乗組みの下士官兵は20万人を超えていたと思われる。指揮する士官は、将官が220名、勅任艦長が860名、海尉艦長が870名、海尉級の士官が4,200名を超えていた(「セーヌ湾の反乱 - 海の男ホーンブロワーシリーズ 9」ハヤカワ文庫、2008年15刷、410頁、訳者の高橋泰邦によるあとがき)。〕。
太平洋に3回の航海を行い、オーストラリア東海岸に到達、ハワイ諸島を発見し、自筆原稿による世界周航の航海日誌を残し(第2回航海)、ニューファンドランド島ニュージーランドの海図を作製した。史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航を成し遂げた(第1回航海)。
10代を石炭運搬の商船船員として過ごした後、1755年に英国海軍に水兵として志願し、七年戦争に加わった。船員としての能力を認められたクックは1757年に士官待遇のに昇進し〔当時の英国海軍では、現在の海軍に通じる、『艦長(勅任艦長 ''Post Captain''、海尉艦長 ''Commander''、軍艦を指揮する海尉 ''Commanding Lieutenant'')→ 海尉 ''lieutenant'' → 士官候補生 ''Midshipmen'' → 下士官兵』の指揮系列と、『航海長 ''Master'' → 航海士 ''Master's Mate'' → 下士官兵』の指揮系列が併存していた。航海長は、複雑極まる帆船の操船、海図の管理の責任を持ち、艦長らの正規海軍士官を戦闘に専念させるための職であった。航海長は、正規の指揮権を有さないものの、艦内での待遇や俸給は海尉と同等であった。現代の海軍とは異なり、航海長の方が艦長より年長で、海上勤務年数が長いことが珍しくなかった。〕
、英国軍艦Solebay号の航海長として、セントローレンス川の河口域を綿密に測量し海図を作成した。クックの作成した海図はウルフ将軍のケベック奇襲上陸作戦(1759年)の成功を導き、クックの存在は英国海軍本部と英国王立協会に注目されることとなった。クックは南方大陸探索の命を受けて、英国軍艦エンデバー号を指揮し、1766年に第1回航海に出帆した。
クックは多数の地域を正確に測量し、いくつかの島や海岸線をヨーロッパに初めて報告した。クックの幾多の偉大な功績をもたらしたのは、卓越した航海術、すぐれた調査と地図作成技術、真実を確かめるためには危険な地域も探検する勇気(南極圏への突入、グレートバリアリーフ周辺の探検など)、逆境での統率力、海軍省の指令の枠に納まらない探検範囲と気宇の壮大さ、これらのすべてであったと言えよう。また壊血病の予防に尽力し表彰されている。
第3回航海の途上、ハワイ島で先住民との争いによって1779年に落命した。
かつてニュージーランドで発行されていた10シリング1940年 - 1955年)、5ポンド・10ポンド紙幣(1956年 - 1967年)に肖像が使用されていた。
== 生い立ち ==
クックは1728年10月27日ノースヨークシャー州マートンに生まれた。スコットランド人の父とマートン生まれの母の下、5人兄弟であった。父が農場の農事監督の職を得たため、家族と共にグレートアイトンの農場に移り、父の雇い主から学資を得て学校に通った。13歳になり父と共に働き始めた。16歳になったクックは、漁村ステイテスの雑貨店で徒弟奉公をするために家を出た。奉公中に店の窓の外を眺めているうち海に魅せられたという。
1年半の後、店のオーナーはクックに商才がないことを悟り、近隣の港町ウィットビーのウォーカー兄弟にクックを紹介する。ウォーカー家は当地の有力な船主で商家であった。1746年に、クックは英国沿岸の石炭運搬船団の見習い船員として雇われた。この間、操船に必要不可欠な代数学三角測量法航海術天文学の勉学に励んだ。
3年間の徒弟奉公を終えたクックはバルト海の貿易船のブリッグ「フレンドシップ号」で働き始めた。1755年にはフレンドシップ号の航海士に昇進していた。しかし、ひと月も経たぬうち、クックは、英国海軍に一介の水兵として志願入隊する。
1755年の英国海軍は、七年戦争に備えて軍備を強化していた。クックは、海軍に入った方が出世できるだろうと考えたらしい。クックは、水兵の身分から瞬く間に准士官たるに昇進し、海軍に入ってから僅か2年後の1757年には、航海長(士官待遇)の任用試験に合格した〔。この時、クックは29歳であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジェームズ・クック」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 James Cook 」があります。




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