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シャー・ジャハーン : ミニ英和和英辞書
シャー・ジャハーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

シャー・ジャハーン : ウィキペディア日本語版
シャー・ジャハーン[ちょうおん]

シャー・ジャハーン Shehābo'd-Dīn Moḥammad Shāh Jahān, 1592年1月5日 - 1666年1月22日)は、ムガル帝国の第5代君主(在位:1628年 - 1658年)。第4代君主ジャハーンギールの三男。母はビルキース・マカーニー
1612年、ペルシア系の大貴族アーサフ・ハーンの娘ムムターズ・マハルと結婚した。晩年の父とは対立し、デカンに退いていた。
1628年はじめにアーグラで即位したシャー・ジャハーンは、内政面ではムガル帝国の最安定期を演出した。外部では1636年アフマドナガルにあったデカン・スルターン朝のひとつアフマドナガル王国を打倒・併合し、デカン地方で領土を拡大した。だが、アフガニスタンではサファヴィー朝と衝突してムガル・サファヴィー戦争を起こしたが、カンダハールを獲得することができなかった。
シャー・ジャハーンの時代はインド・イスラーム文化の最盛期であり、美術や建築などの華が咲いた。シャー・ジャハーンはまた、妃ムムターズ・マハルの墓廟であるタージ・マハルの建造者としても有名な人物である。当時、ヨーロッパから訪れた旅行者はシャー・ジャハーンを「壮麗王」(the Magnificent)として称えた。
ムムターズ・マハルの死後、シャー・ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227〕。シャー・ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、1657年に重病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227〕。
シャー・ジャハーンは長男ダーラー・シコーを後継者としていたが、次男のベンガル太守シャー・シュジャー、三男のデカン太守アウラングゼーブ、四男のグジャラート太守ムラード・バフシュはこれを認めていなかった。結局、1658年に勝利したアウラングゼーブが皇位を継承し、シャー・ジャハーンはアーグラ城塞に幽閉され、亡き愛妃の眠るタージ・マハルを眺めながら、1666年に74歳で死去した。'' Shehābo'd-Dīn Moḥammad Shāh Jahān, 1592年1月5日 - 1666年1月22日)は、ムガル帝国の第5代君主(在位:1628年 - 1658年)。第4代君主ジャハーンギールの三男。母はビルキース・マカーニー
1612年、ペルシア系の大貴族アーサフ・ハーンの娘ムムターズ・マハルと結婚した。晩年の父とは対立し、デカンに退いていた。
1628年はじめにアーグラで即位したシャー・ジャハーンは、内政面ではムガル帝国の最安定期を演出した。外部では1636年アフマドナガルにあったデカン・スルターン朝のひとつアフマドナガル王国を打倒・併合し、デカン地方で領土を拡大した。だが、アフガニスタンではサファヴィー朝と衝突してムガル・サファヴィー戦争を起こしたが、カンダハールを獲得することができなかった。
シャー・ジャハーンの時代はインド・イスラーム文化の最盛期であり、美術や建築などの華が咲いた。シャー・ジャハーンはまた、妃ムムターズ・マハルの墓廟であるタージ・マハルの建造者としても有名な人物である。当時、ヨーロッパから訪れた旅行者はシャー・ジャハーンを「壮麗王」(the Magnificent)として称えた。
ムムターズ・マハルの死後、シャー・ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227〕。シャー・ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、1657年に重病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227〕。
シャー・ジャハーンは長男ダーラー・シコーを後継者としていたが、次男のベンガル太守シャー・シュジャー、三男のデカン太守アウラングゼーブ、四男のグジャラート太守ムラード・バフシュはこれを認めていなかった。結局、1658年に勝利したアウラングゼーブが皇位を継承し、シャー・ジャハーンはアーグラ城塞に幽閉され、亡き愛妃の眠るタージ・マハルを眺めながら、1666年に74歳で死去した。
== 生涯 ==

===誕生・宮廷の対立 ===

1592年1月5日、シャー・ジャハーンことフッラムは、ムガル帝国の皇帝ジャハーンギール(当時は皇帝ではなく、名前もサリーム)とラージプートの王妃ジョーダー・バーイー(ジャガト・ゴーサーイン)との間に生まれた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.217〕〔Delhi 6 〕。母はマールワール王国の君主ウダイ・シングの娘。
フッラムは6歳の時、祖父アクバルの命により生母から引き離され、アクバルの妃の一人ルカイヤ・スルターン・ベーグムによって養育された。これはアクバルがフッラムの素質を見抜いたからとされ、ルカイヤは君主にとって必要な責務などを教え込んだ。
その後、1605年に皇帝アクバルが死亡し、父サリームがジャハーンギールとして皇帝となった。
1610年以降、ジャハーンギールが病気の発作を起こしはじめ、政治はフッラム、宰相のイティマード・ウッダウラ、皇帝の妃のヌール・ジャハーン、その弟アーサフ・ハーンが担当する形となった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.214〕。彼ら4人はジャハーンギールに対して大きな影響力を持った〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.214〕。
1612年5月、フッラムはアーサフ・ハーンの娘アルジュマンド・バーヌー・ベーグムと結婚した。彼女には宮廷の光を意味する「ムムターズ・マハル」の称号が与えられた。2人は仲睦まじく、どこへ行くときも一緒であった。彼らの間には14人の子が生まれ、息子はダーラー・シコーシャー・シュジャーアウラングゼーブムラード・バフシュ、娘はジャハーナーラー・ベーグムラウシャナーラー・ベーグムガウハーラーラー・ベーグムが成人した。
同年以降、ジャハーンギールの妃ヌール・ジャハーンが実権を握り、事実上の皇帝というところとなり、宮廷には緊張が走っていた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215〕。フッラムもまた、ジャハーンギール死後の後継者となるべく、ほかの3人の兄弟フスローパルヴィーズシャフリヤールと争わなければならなかった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215〕。皇族以外の有力者では、ヌール・ジャハーン、アーサフ・ハーン、マハーバト・ハーンがそれぞれ加わった。
祖父アクバルの治世以来、ムガル帝国はデカン地方に介入するようになっていたため、フッラムは若年にしてデカンへの遠征にも派遣され、宮廷を離れることもしばしばだった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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