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サレカット・イスラム : ミニ英和和英辞書
サレカット・イスラム[らむ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラム : [らむ]
 【名詞】 1. (1) lamb 2. (2) rump 3. (3) rum 4. (4) RAM (random access memory) 5. (P), (n) (1) lamb/(2) rump/(3) rum/(4) RAM (random access memory)

サレカット・イスラム : ウィキペディア日本語版
サレカット・イスラム[らむ]

サレカット・イスラム()〔インドネシア語では「イスラム」を「イスラーム」と長音で発音しないので、現地語の発音からカタカナで表記すると「サレカット・イスラム」となる。〕は、20世紀初頭、オランダ領東インド(現インドネシア)で結成されたイスラーム系大衆団体である。日本語では「イスラム同盟」と訳される例も多い〔日本語での「イスラム同盟」は、ほぼ定訳といってよい。例えば、専門家の間では、永積(1980年)白石(1997年)ら多くが「イスラム同盟」と表記している。一方、指導者の一人、ハジ・アグス・サリムの生涯と思想をテーマにした間苧谷(1970年)は「サレカット・イスラム」を使用し、また、成立期から初期にかけてのについての研究を複数発表した深見は、初期の論文では「イスラム同盟ことサレカット・イスラム」と断った後で「イスラム同盟」を用いたが、深見(1978年)では「サレカット・イスラム」のみを用いている。他にも「サリカット・イスラーム」「イスラーム同盟」と訳された例があるが、定着しているとは言い難い。の日本語訳をめぐる問題については、桃木至朗「東南アジア史 誤解と正解」(第4回全国高等学校歴史教育研究会、2006年8月2日、大阪大学) (PDF文書)を参照。本項目の項目名は、この団体名が固有名詞であることに鑑みて、現地語発音から「サレカット・イスラム」とした。〕。略称は。
当初は華人系商人に対抗するムスリムの商人組織として結成されたが、組織の拡大とともに植民地支配に抵抗する急進的な民族主義団体としての性格を強め、1910年代から1920年代初頭にかけて、当時としては空前の規模の動員力を誇った。1923年にはサレカット・イスラム党、さらに1929年にインドネシア・サレカット・イスラム党 () と改名した。
1973年スハルト体制下において、他のイスラーム系諸政党とともに () に統合された。
== 沿革 ==

=== 結成 ===
サレカット・イスラム () の前身は、バタヴィア(現ジャカルタ)と西ジャワのバイテンゾルフ(現ボゴール)で、それぞれ1909年1910年に結成されたサレカット・ダガン・イスラム (イスラム商業同盟、, 以下)である〔サレカット・ダガン・イスラム () の成立事情については、深見、1975年、116-118頁、を参照。〕。この団体を結成したのは、ジャワ貴族出身のジャーナリスト、ティルトアディスルヨ〔ティルトアディスルヨ (Raden Mas Tirtoadisoerjo, 1880 - 1918) は、オランダ領東インドにおけるジャーナリズム、民族主義運動の先駆者の一人。原住民官吏養成学校 (OSVIA) を卒業後、原住民官吏とはならずに雑誌編集者になった。1903年、21歳にして花形編集者として名声を確立していた彼は『スンダ・ブリタ』という新聞を自らの手で発刊。これは原住民によって出資、運営、編集、刊行された初めての新聞となった。1907年、週刊誌『メダン・プリアイ』を発刊(1909年からは日刊紙となる)、1911年のその購読者数は2000人に達した。Van Niel, 1984, pp.89-90, Shiraishi, 1990, p.33,34.〕であり、彼の目的は同じムスリムであるアラブ人商人と「原住民」商人が手を結び〔当時のオランダ領東インドでは、ヨーロッパ人 Europeanen 、東洋外国人 Vreemde Oosterlingen 、原住民 Inlanders の3つの人種的区分があり、それぞれ法的地位が異なっていた。華人とアラブ人は東洋外国人に属していた。深見、1975年、125頁、脚注20。〕、当時の東インドで活発な経済活動をおこなっていた華人系商人に対抗することだった〔アラブ人商人がイスラームを媒介にして原住民商人と手を結んだのは、19世紀末以来、華人がヨーロッパ人と同等の商法刑法上の地位を獲得しつつあったことにアラブ人商人が脅威を感じていたからでもあった。深見、1975年、116頁。〕。
こうした動きにソロ(スラカルタ)の大手バティック業者、ハジ・サマンフディ〔ハジ・サマンフディ (Haji Samanhudi, 1868 - 1956) は、ソロ(スラカルタ)の商人。父を継いでバティック業者となり、ジャワ島各地に支店網を拡げた。Van Niel, 1984, pp.88-89〕も刺激を受けた。1911年、ティルトアディスルヨの協力を得て、サマンフディはソロで同様の組織を結成した。サレカット・イスラム(以下、)の名称は、そのときの組織要綱で初めて使用され、以後、各地で結成される同様の組織にも定着していったようである〔永積、1980年、148頁。また、1912年9月にチョクロアミノトが作成した規約で、名称をではなくとした理由についての分析は、深見、1975年、122頁、を参照。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サレカット・イスラム」の詳細全文を読む




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