翻訳と辞書
Words near each other
・ サセックス
・ サセックス (曖昧さ回避)
・ サセックス (重巡洋艦)
・ サセックスの吸血鬼
・ サセックスステークス
・ サセックス・スパニエル
・ サセックス公
・ サセックス公爵
・ サセックス大学
・ サセックス州
サセックス王国
・ サセックス郡
・ サセックス郡 (デラウェア州)
・ サセックス郡 (ニュージャージー州)
・ サセックス郡 (バージニア州)
・ サセッタ
・ サセプタンス
・ サセプロ
・ サセ子
・ サソリ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

サセックス王国 : ミニ英和和英辞書
サセックス王国[させっくすおうこく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王国 : [おうこく]
 【名詞】 1. kingdom 2. monarchy 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

サセックス王国 : ウィキペディア日本語版
サセックス王国[させっくすおうこく]

サセックス王国(サセックスおうこく、)、ないし、南サクソン人の王国(みなみサクソンじんのおうこく、、)は、イングランド南部の沿岸地域に成立したサクソン人入植地が、後に独立した王国。その領域は、先んじて存在していたブリタンニアレグネンセス (Regnenses) の王国や、後の時代のサセックス州の領域と、概ね一致する。この領域の大部分は、初期にはアンドレッドの森 (Forest of Andred) に覆われていた。『アングロサクソン年代記』によれば、この森は120マイル(およそ190キロメートル)の幅と30マイル(およそ50キロメートル)の奥行きがあったとされるが、実際には90マイル(およそ150キロメートル)ほどの幅であったものと推定される〔Seward Sussex. p.76〕。森にはオオカミイノシシが生息し、クマもいた〔。森には木々が密生していたため、その中にあった集落の一部は、ドゥームズデイ・ブックにも記録されなかった〔。
南サクソン人たちを統治したのは、歴代のサセックス王であった (:en:List of monarchs of Sussex)。
== 歴史 ==

=== 建国 ===
アングロサクソン年代記』には、477年エール (Ælle) が3人の息子とともに3隻の船でクメンショア (Cymenshore) という場所に到着したと述べる、南サクソン人の王国の建国神話が記されている〔ASC Parker MS. 477AD.〕。『年代記』は上陸したエールが、抵抗した先住民を殺し、生き延びた者たちをアンドレッドの森へと追いやった様子を描いている〔。『年代記』はさらに、エールが485年にマークレデスバーン (Mercredesburne) という場所の川岸近くでブリトン人と戦ったこと(マークレデスバーンの戦いBattle ofMercredesburne)〔ASC Parker MS. 485AD.〕、491年ペベンシー (Pevensey) で攻城戦の末に住民を虐殺したこと記している〔ASC Parker MS. 491AD.〕。
クメンショアは伝統的に、セルジー (Selsey) の南にあるオウエンズ・ロックス (the Owers Rocks) と現在呼ばれている辺りにあったものと考えられてきたが、エールや3人の息子たちがこの地域にいたことを示す考古学的な証拠は見つかっていない〔Martin Welch: ''Early Anglo-Saxon Sussex: from Civitas to Shire'', in Brandon (1978), pp.13-35.〕〔S. E. Kelly, Charters of the Selsey, Anglo-Saxon Charters Volume VI p. 118" - Oxford: Published for The British Academy by Oxford University Press, 1998. - Kelly believes that ''The Owers'' is where ''Cymenshore'' is, she gives the alternate spellings as ''Cumeneshore, Cumenshore, Cimeneres horan, Cymeneres horan''〕。ほとんどの歴史家たちは、エールが3人の息子とともに3隻の船で上陸したというサセックス建国の話は、神話であると考えている〔〔Welch.Anglo-Saxon England p.9.- ''When Aella and his three sons land from three ships on a beach named after one of the sons, we are reading legend rather than history.''〕〔Jones.''The End of Roman Britain.'' p.71. - ''..the repetitious entries for invading ships in the Chronicle (three ships of Hengest and Horsa; three ships of Ælle; five ships of Cerdic and Cynric; two ships of Port; three ships of Stuf and Wihtgar), drawn from preliterate traditions including bogus eponyms and duplications, might be considered a poetic convention.''〕。
考古学的証拠によって、当時の墓地の位置から、入植地の範囲が推定されている〔Welch.Anglo-Saxon England. Chapter 5. Burial practices and Structures〕。入植者たちの出身地は、墳墓の副葬品や陶器類などのデザインを、現在のドイツ北部にあたるゲルマン人の故地に見出される同種のもののデザインと 比較することで判定される〔Welch. Anglo-Saxon England. pp.9-13〕。5世紀当時のおもな入植地域は、現在のイースト・サセックス州のウーズ川 (River Ouse) 下流部とチャックメア川 (River Cuckmere) に挟まれた範囲であったことが、当地に残るアングロ・サクソン系墓地の数から推定される〔Martin Welch, ''Early Anglo-Saxon Sussex'', pp. 23-25.〕。また、例外的な事例として、現在のウェスト・サセックス州の2か所、ワージング近郊のハイダウン・ヒル (Highdown Hill) とチチェスター北西およそ11キロメートル(7マイル)の丘陵地チチェスター・ダウン (Chichester Down) でも墓地が見つかっている〔Down.Chichester Excavations. p.9. :アップルダウンでは、火葬土葬を含め、282体が記録された。〕。ウーズ川とチェックメア川の間の地域は、アングロ・サクソン人傭兵たちが協定を結んで入植した土地であったと考えられている〔。
発見された当時の墓からは、協定による入植であったという仮説を支持する証拠も見つかっている〔Martin Welch, ''Early Anglo-Saxon Sussex'', pp.25-26〕。例えば、イースト・サセックスビショップストーンのルーカリー・ヒル (Rookery Hill) における墓地の発掘では、サクソン人の間で広く用いられていたクォイト (Quoit) 型のバックルなど、後期ローマ、ないしは、ブリタンニアで製造されたローマ風の金属製品が出土しており、周辺への入植が5世紀はじめに遡ることが示された〔Martin Bell: ''Saxon Settlements and buildings in Sussex'', in Brandon (1978), pp. 39-40〕。これに続く発掘調査によって、サクソン人の建物が認められる地域が、相当広範囲に及ぶことが明らかになった。発掘された22件の建物のうち、3件は竪穴式住居 (sunken huts) で、17件は1本ごとの柱穴を長方形に配しており、1件は柱穴の間が横木を入れる溝でつながれ、残りの1件は8つの大きな柱穴を構えたものであった〔。
ハイダウンの墓地は、ローマ時代に退蔵された1997年に発見された場所から、2キロメートルほどしか離れていない〔Sally White. The Patching hoard published in Medieval Archaeology. pp.88-93〕。パッチングの財宝 (Patching hoard) として知られるようになったこの退蔵品の中には、最も新しいもので461年に鋳造された硬貨が含まれていた。こうしたことから、ハイダウンの墓地は、パッチングで財宝が埋められた頃に、サクソン人たちによって使用されていたものと推測されている〔。5世紀にハイダウンを墓地として使用していた入植地がどこだったのかは確定されていないが、サリー・ホワイト (Sally White) は、パッチングとハイダウンを結びつける何らかのつながりがあったと考えており、M・G・ウェルチ (M.G.Welch) は、当地にあったローマ人やブリトン人のコミュニティがサクソン人の傭兵たちを雇っていたのではなかいかとする説を提唱している〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サセックス王国」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.