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コンラート・ローレンツ : ミニ英和和英辞書
コンラート・ローレンツ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

コンラート・ローレンツ : ウィキペディア日本語版
コンラート・ローレンツ[ちょうおん]


コンラート・ツァハリアス・ローレンツ(Konrad Zacharias Lorenz, 1903年11月7日 - 1989年2月27日)は、オーストリアの動物行動学者。コンラッド・ローレンツとも表記される。刷り込みの研究者で、近代動物行動学を確立した人物のひとりとして知られる。息子は物理学者のトマス・ローレンツ。父より先に死去した。
== 生涯 ==
1903年、オーストリア=ハンガリー帝国時代のウィーン近郊アルテンベルク(de)に生まれる。ノーベル賞受賞に際して書かれた自伝的エッセイで、両親が「私の動物への尋常ではない愛情に対して、おそろしく寛容だった」こと、そしてセルマ・ラーゲルレーヴの『ニルスのふしぎな旅』がガンへの情熱を満たしたことが科学者として重要だったと認めた。はじめウィーン大学医学部で学び医師の資格を得、さらにウィーン大学で動物学を学ぶ。
父の願いで、1922年コロンビア大学で医学を学び始めた。しかし1923年にはウィーンに戻り、ウィーン大学で研究を続けた。1928年に医学博士となり、それから解剖学研究所で1933年まで助教授を務めた。1933年に動物学で二つ目の博士号を取得した。1936年に本能に関する国際シンポジウムで重要な友人であり同僚となるニコ・ティンバーゲンと出会った。二人はともに野生の、家畜の、そして雑種のガチョウを研究した。
腐敗の同様のプロセスは文明化された人間の中でも起きる」のではないかと疑い、恐れ始めた。1940年ケーニヒスベルク大学の心理学の教授となった。1941年ドイツ国防軍徴兵された。ローレンツはバイク整備士を望んだが、軍医として配属された。軍務についてすぐにソ連軍捕虜となり、1942年から1948年まで捕虜収容所で拘束された。そのあいだも医者として働き、「ほとんどは医者だったが、何人かのロシア人ととても親しくなった」。解放された時、書きためていた本の原稿とペットとしていたムクドリを持ち帰ることを許された。ローレンツは「無傷の鳥と原稿を持って」アルテンベルクに戻った。原稿は『鏡の背面』に使われた。
1950年にマックス・プランク協会はで行動心理学ローレンツ研究所を設立した。1957年にはミュンヘン大学動物学科の名誉教授となった。ローレンツは1958年にはマックス・プランク行動心理学研究所に移籍した。1969年Prix mondial Cino Del Ducaの最初の受賞者となった。
1973年ニコ・ティンバーゲンカール・フォン・フリッシュと共にノーベル医学生理学賞を受賞した。いずれも動物行動学の同僚研究者である。同年にマックス・ブランク研究所を退職したが、アルテンベルクやに住み、研究と執筆活動を続けた。1974年にオーストリアに戻り、オーストリア科学アカデミー動物社会科学研究所の所長になる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「コンラート・ローレンツ」の詳細全文を読む




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