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クルト・ゲーデル : ミニ英和和英辞書
クルト・ゲーデル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クルト・ゲーデル : ウィキペディア日本語版
クルト・ゲーデル[ちょうおん]

クルト・ゲーデル(Kurt Gödel, 1906年4月28日 - 1978年1月14日)は、オーストリア・ハンガリー二重帝国(現チェコ)のブルノ生まれの数学者論理学者である。業績には、完全性定理及び不完全性定理連続体仮説に関する研究が知られる。
== 略歴 ==
1924年、ゲーデルは、ウィーン大学に入学し、まず物理学を、後に数学を学んだ。そして、1930年には、最初の重要な業績である「第一階述語論理の完全性定理」を発表し、学位を得た。
1931年ゲーデル数の概念を用い、20世紀数学基礎論論理学にとって最も重要な発見とされる「不完全性定理」を発表した〔"Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme, I." (1931)〕。これは、ヒルベルトが数学の無矛盾性を証明するために推進した「ヒルベルト・プログラム」に関連して研究されたものであるが、「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを示した不完全性定理は、ヒルベルト学派の主張した有限の立場を忠実に用いて、手法としての超数学を具体化することで、皮肉にもそのプログラムが本質的に不可能であることを暗示するというものであった。不完全性定理は、ジョン・フォン・ノイマンなど当代一流の学者の激賞を受け、「人間の理性の限界を示した」とも評されている。
1940年、ヒルベルトの第一問題(連続体仮説)について、「集合論のZF公理系が無矛盾ならば、そこに選択公理と一般連続体仮説を加えても無矛盾である」ということを証明した〔"The Consistency of the Continuum Hypothesis" (1940)〕。以上がゲーデルの三大業績と呼ばれている。この後、ゲーデルは、連続体仮説に関する研究から身を置いた。1963年ポール・コーエンは、「ZF公理系に選択公理と一般連続体仮説の否定を加えても無矛盾である」ということを証明し、ゲーデルの結果と合わせて、「選択公理と一般連続体仮説はZFとは独立である(したがって、証明も否定の証明もできない)」ということを示した。このとき、ゲーデルは「これは自分がなすべき仕事だった」と悔やんだと言われ、コーエンの仕事を絶賛した。その一方で、ゲーデルは「すべての数学的命題に対して、人間は真偽を判定することが可能である」と信じていたと言われる。特に、連続体仮説に関しては、その否定を信じていた。
その他の業績として、アインシュタイン一般相対性理論におけるゲーデル解1949年)などがある。この解は、非常に奇妙な性質を示したために、アインシュタインをして自身の理論に疑問を抱かせるに至った。
ゲーデルは、ウィーン大学の講師を勤めたが、1940年頃にはナチス・ドイツを逃れるために、妻アデルと共にアメリカ合衆国に移住した〔もっとも、ゲーデルはユダヤ系ではないこともあって、ナチスに中立的な立場だったといわれる。むしろ、ゲーデルは、自分をユダヤ人と誤解してそれを理由に冷遇したオーストリア学術界に対して、強い反感を持っており、そこから離れたいという思いのほうが強かったようである。その証拠に、ゲーデルは、生前オーストリアから与えられた名誉号などをすべて辞退している。〕。ゲーデルは、米国の市民権を取得し〔ゲーデルはその際、市民権を得るための面接で、アメリカの憲法が独裁者の出現を防げない欠陥憲法であることを指摘したとも言われる。〕、プリンストン高等研究所の教授となった。この研究所では、アインシュタインと家族ぐるみで親密に交流し、物理学哲学などについて議論を交わした。
なお、この渡米の時点で、すでに人間不信に近い症状が出ていたようである。
1948年、ゲーデルは、アメリカ市民権を取得する。このとき、保証人に名を連ねたのがアインシュタインである。当時、アメリカ市民権を取得するには、米国憲法に関する面接試験が課せられていた。そのため、ゲーデルは、合衆国憲法を一から勉強しはじめた。面接当日、ゲーデルは「合衆国憲法が独裁国家に合法的に移行する可能性を秘めていることを発見した」とアインシュタインたちに語り、彼らを当惑させた。そして、移民審査をする判事から「あなたは、独裁国家(ナチス・ドイツに併合されたオーストリア)から来られたのですね。我がアメリカ合衆国ではそのようなことは起きませんから、安心してください」と言われた際、ゲーデルは、即座に「それどころか私は、いかにしてそのようなことが起こりうるのかを証明できるのです」と答えた。そのため、その場に付き添っていたアインシュタインたちが慌てて場を取り繕うという一幕があった〔高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書、1999年、153-155頁)を参照。〕。
1970年代初頭には、ライプニッツによる「神の存在証明」を洗練しとして知られる論文を知人に配布した。しかし、その目的が、神学論争への加担ではなく、あくまで論理学的な興味の追求にあったため、ゲーデルは、誤解を恐れて生前は公表しなかった。その中で、ゲーデルは、ライプニッツの主張について、公理系を解明しつつ様相論理の手法を用いて明確な定式化を試みた。この論文は、ゲーデルが没してから9年後の1987年に初めて公開された。
晩年は、非常に内向的となった。また、精神にも失調をきたしており、毒殺されることを恐れるあまり、妻アデルが作った食事以外は、自分が調理した食事すら口にしなかった。その他にも、毒ガスによる暗殺を恐れたために、冬でも家の窓を開け放っていた。また、人前に出ることはほとんどなく、自宅に籠って哲学と論理学の研究を続けていた。最終的には、アデルが病院に入院して自宅を離れていた期間に、絶食による飢餓状態となった。すぐに病院に搬送されたが、プリンストン病院で死去した。このとき、ゲーデルの体重は、65ポンド(約29.5kg)しかなかった。彼の遺稿は、英語、ドイツ語、およびガベルスベルガー式速記と呼ばれるドイツの古い速記法で書かれているが、その速記法はすでに廃れているため、解読が困難であることで知られている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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