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オーガスタス・レオポルド・キューパー : ミニ英和和英辞書
オーガスタス・レオポルド・キューパー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

オーガスタス・レオポルド・キューパー : ウィキペディア日本語版
オーガスタス・レオポルド・キューパー[ちょうおん]

サーオーガスタス・レオポルド・キューパー(Augustus Leopold Kuper、1809年8月16日 - 1885年10月28日)は、英国王立海軍提督で祖先はドイツ系バス勲章の受勲者である。薩英戦争および下関戦争の司令官を務めた。
1837年6月19日にサー・ジェームズ・ジョン・ゴードン・ブレマー(James John Gordon Bremer)の長女であるエマ・マーガレットと結婚している。
==軍歴==
1823年に士官候補生として海軍に入る。1830年2月20日には中尉に昇進。翌1831年10月17日、アイルランド艦隊でエドワード・ラッセル卿(Lord Edward Russell)が艦長を務めるサベージ(HMS ''Savage'')の乗組員となる。1832年4月9日には、ラッセルと共にスペイン海域艦隊の戦闘スループ・ニムロッド(HMS ''Nimrod'')に異動した。1833年8月27日、ラッセルの後任としてジョン・マクドゥガル(John Macdougall)が着任したが、キューパーはスペイン・ポルトガル海域艦隊に留まった。1836年3月30日からアレクサンダー・レントン・シャープ(Alexander Renton Sharpe)が艦長を務める三等戦列艦ミンデン(HMS ''Minden'')に乗艦、1837年7月10日には後に義父となるゴードン・ブレマーが指揮するアリゲーター(HMS ''Alligator'')へと異動した。アリゲーターはオーストラリアにあり、植民都市であるポート・エジントン(Port Essington)の建設に関与した。
1839年7月27日、キューパーは海尉でありながら、戦闘スループ・ペローラス(HMS ''Pelorus'')の艦長代理となる。11月25日、ペローラスはポート・エジントンを襲ったサイクロンのため座礁したが、けが人はなくまたしばらく後に離礁に成功した。1840年12月中佐に昇進したが、ペローラスの艦長を務めた日に遡っての昇進が認められている。1840年3月5日、アリゲーターの艦長代理となり、アヘン戦争(1840-1842)に参加した。
1841年6月8日、大佐に昇進。同月14日にキャリオープ(HMS ''Calliope'')の艦長に就任し、広東の占領に参加した。1842年1月21日、バス勲章(CB:コンパニオン)を授与される。
1850年7月3日、帆走フリゲート・シーティス(HMS ''Thetis'')がプリマスで就役するとその艦長となり、1854年2月までその任にあった。1851年から53年にかけ、シーティスはアメリカ大陸南東岸と太平洋に航海したが、バンクーバー島と米大陸との間のジョージア海峡にあるキューパー島Kuper Island)は彼の名前にちなんだものである。
1855年8月13日から1856年1月24日にかけて、ロンドンおよび地中海で勤務した。
1861年に少将に進級、サー・ジェームズ・ホープが指揮する英国東インド・中国艦隊に派遣される。1862年6月26日(文久2年5月29日)、第二次東禅寺事件が発生した。英国代理公使ジョン・ニールは、中国のホープに艦隊の派遣を要請した。これを受けてホープはキューパーをスクリューフリゲート・ユーライアラスと共に横浜に派遣した。キューパーが到着したのは9月14日(文久2年8月21日)、すなわち生麦事件当日の夕刻であった。この際、キューパーは積極的な行動はとらず、ホープの命令に従い、日本の海上交通の封鎖が可能か否かを調べ、一旦上海に戻っている。1862年10月29日にはホープの後を受け、東インド・中国艦隊の司令官となった。このとき中国は太平天国の乱の後半にあったが、同地のフランス海軍の司令官が中将であったため、釣り合いをとるために、キューパーも一時的に中将に昇進している。
1863年1月31日、品川・御殿山に建設中であった新英国公使館が焼き討ちにあう等、生麦事件後も日本の攘夷機運は高まるばかりであった。このため、キューパーは再び日本に向かい、3月22日(文久3年2月4日)横浜に到着した。このとき、キューパーは横浜に可能な限りの艦隊を集めることとした。この圧力もあり、6月23日(文久3年5月8日)に幕府は生麦事件の賠償金10万ポンド(第二次東禅寺事件の賠償金1万ポンドと合わせ、合計11万ポンド)の支払いに同意した。
1863年8月6日、薩摩藩との残りの賠償金2万5000ポンドの直接交渉のため、キューパーはユーライアラスに将旗を掲げ、7隻の英国軍艦を率いて横浜を出港、8月11日に鹿児島沖に到着した。この遠征にはニールも同行した。8月14日、ニールは薩摩藩の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告し、翌日戦闘が開始された。8月17日、英軍は鹿児島から撤退した。この際、ユーライアスの艦長と副長が戦死している(薩英戦争)。
1864年には、キューパーは四カ国連合艦隊17隻の司令官として、再びユーライアスに将旗を掲げて長州藩を攻撃した。その際の通訳アーネスト・サトウであった。この時の功績により、1864年2月25日にバス勲章(KCB:ナイト・コマンダー)を授与され、正式に中将に昇進した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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