翻訳と辞書
Words near each other
・ オスマン・トルコ語のアラビア文字
・ オスマン・トルコ軍楽隊
・ オスマン・フアト・オスマンオウル
・ オスマン・ユセフ
・ オスマン・リンス
・ オスマン・東ローマ戦争
・ オスマン主義
・ オスマン人
・ オスマン債務管理局
・ オスマン古典音楽
オスマン家
・ オスマン帝国
・ オスマン帝国の君主
・ オスマン帝国の国旗
・ オスマン帝国の国章
・ オスマン帝国の対プロテスタント政策
・ オスマン帝国の料理
・ オスマン帝国の社会構造
・ オスマン帝国の行政区分
・ オスマン帝国の行政区画


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

オスマン家 : ウィキペディア日本語版
オスマン家[おすまんけ]

オスマン家(オスマンけ、''Osmanlı hanedanı'')は、オスマン帝国の皇帝の家系として続いたトルコ系のヨーロッパの皇帝家。13世紀末にアナトリア半島北東部を支配した初代オスマン1世に始まり、36代メフメト6世が廃位される1922年までオスマン帝国に君臨した。
かつてはオスマン部族(オットマン部族)と呼ばれることも多かったが、オスマンの名は遊牧部族的組織を脱してガーズィージハードに従事するムスリム戦士)集団を率い、君侯国、帝国へと発展しはじめる基礎を打ち立てたオスマンベイ(オスマン帝国の建国者オスマン1世)に由来するため、適当な呼称ではない。現在、成員はオスマンオウル(オスマンの子の意味)という姓を名乗っているので、オスマンオウル家と呼ぶのが正式である。
== 起源 ==
オスマン家の起源に関する確実な史料は存在しないが、後世オスマン帝国で信じられた始祖伝説によると、その遠祖はテュルク系遊牧民のオグズ24部族のひとつ、カユ部族の長の家系の出自である。イスラム教を受け入れたカユ部族は中央アジアからイランホラーサーンに移住し、スレイマン・シャーが部族長のとき、おそらくモンゴル帝国の征西を避けてアナトリアに入った。スレイマン・シャーはそこで死に、部族の一部はホラーサーンに帰ったが、スレイマン・シャーの子の一人エルトゥールルは遊牧民400幕を連れてアナトリアに残り、ルーム・セルジューク朝に仕えてアナトリア東北部のソユトの町を中心とする一帯を遊牧地として与えられ、東ローマ帝国に仕えるキリスト教徒と戦った。1280年から1290年の間頃にエルトゥールルは病死し、息子のオスマン(オスマン1世)が後を継ぐ。
後世の記録によると、オスマン・ベイは周辺のキリスト教徒の領主たちと(時にはイスラム教徒とも)激しく戦って周辺の都市を征服し、1301年にはコンスタンティノポリスから派遣されてきた東ローマ軍を撃破した。この間のオスマンがベイ(君侯)として自立した勢力を固めた頃にあたる1299年が伝統的にオスマン帝国の建国年と見なされている。その子、2代オルハンは海を渡ってヨーロッパに勢力を広げ、3代ムラト1世バルカン半島に勢力を広げ、カイロのアッバース朝カリフからスルタンを名乗ることを承認された。
歴代の皇帝は皇后の出自にあまりこだわっていない。オスマン1世とトルコ系女性マル・ハトゥンの間の子であるオルハンを例外として、ムラト1世の母ニルフェル、バヤズィト1世の母ギュルチチェキ、メフメト1世の母オルガ、ムラト2世の母エミネら、歴代の皇帝の母はほとんどがギリシャ系やブルガリア系などのキリスト教徒出身者で、人質や女奴隷として後宮に入った女性であった。オスマン帝国の主要な敵国であった西ヨーロッパ諸国出身の母后もおり、ムラト3世の母ヌールバヌー・スルタンはイタリア系、マフムト2世の母ナクシディル・スルタンはフランス系であるとされる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オスマン家」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.