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エドウィン・サムナー : ウィキペディア日本語版
エドウィン・サムナー[ちょうおん]

エドウィン・ボーズ・サムナー(、1797年1月30日-1863年3月21日)は、アメリカ陸軍の職業軍人であり、南北戦争では北軍将軍となり、両軍併せても最年長の野戦軍団指揮官だった。〔Warner, p. 489.〕その渾名は「ブル」(雄牛)あるいは「ブルの頭」であり、どちらもその轟き渡る声から来ており、またマスケット銃弾がサムナーの頭で跳ね返ったという伝説からも来ていた。
サムナーはブラック・ホーク戦争で戦い、米墨戦争で頭角を現し、西部辺境、および南北戦争の前半を東部戦線で戦った。半島方面作戦とその七日間の戦いメリーランド方面作戦およびフレデリックスバーグの戦いを通じてポトマック軍第2軍団を指揮した。
== 初期の経歴 ==
サムナーはマサチューセッツ州ボストンで、エリシャ・サムナーとナンシー・ボス・サムナー夫妻の息子として生まれた。当初のミドルネームは母の少女時代の名前ボスであった可能性がある。1819年ニューヨーク州トロイでの商人としての経歴に興味を失くした後で、3月3日に第2アメリカ歩兵連隊の少尉としてアメリカ陸軍に入った。1825年1月25日には中尉に昇進した。

サムナーは1822年3月31日にハンナ・ウィッカーシャム・フォスター(1804年-1880年)と結婚した。夫妻には6人の子供達、ナンシー、マーガレット・フォスター、サラ・モンゴメリー、メアリー・ヘロン、エドウィン・ボーズ・ジュニアおよびサミュエル・ストロー・サムナーが生まれた。息子のサミュエルは米西戦争義和団の乱および米比戦争の時に陸軍の将軍だった。
サムナーは後にブラック・ホーク戦争や様々なインディアンに対する遠征に参加した。1833年3月4日、大尉の位に昇り、アメリカ合衆国議会がアメリカ竜騎兵連隊(後に第1アメリカ竜騎兵連隊)を創設して直ぐに、そのB中隊指揮を割り当てられた。
1838年ペンシルベニア州カーライル兵舎で騎兵訓練施設を統率した。1842年から1845年アイオワ準州アトキンソン砦の任務を割り当てられた。1846年6月30日に第2竜騎兵連隊の少佐に昇進した。米墨戦争のとき、セルロ・ゴードの戦いで中佐に名誉昇進した。モリノ・デル・レイの戦いでは、大佐の名誉階級を受けた。1848年7月23日に第1アメリカ竜騎兵連隊の中佐に昇進した。1851年から1853年ニューメキシコ準州の軍政府長官を務め、1855年3月3日に第1アメリカ竜騎兵連隊の大佐に昇進した。

1856年、サムナーはカンザス州レブンワース砦の指揮官となり、「血を流すカンザス」と呼ばれる事件に関わった。1857年シャイアン族インディアンに対する遠征隊を指揮し、1858年には西部方面軍指揮官となった。ウィンフィールド・スコット中将がサムナーを指名して、大統領に選ばれたエイブラハム・リンカーンイリノイ州スプリングフィールドからワシントンD.C.まで護衛させた〔Dupuy, p. 719.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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