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エコール・デ・ボザール : ミニ英和和英辞書
エコール・デ・ボザール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エコール・デ・ボザール : ウィキペディア日本語版
エコール・デ・ボザール[ちょうおん]

エコール・デ・ボザール(, ENSBA)は17世紀パリに設立されたフランス高等美術学校である。350年間以上にわたる歴史があり、建築絵画彫刻の分野に芸術家を輩出してきた。現在は建築がここから切り離されている。
現在は特別高等教育機関でありフランス文化省の管轄下にある。
パリ・ボザールの正面にはマラケ河岸から一内側に入ってボナパルト街に面して構え、ニコラ・プッサンとピエール・ビュジエの胸像を頂部に載せた門柱が目に入り、中はフランス・ルネサンス建築の断片でくみ上げられた壮大な中庭が目の前に展開する。
== 概要 ==

ボザールでの教育は伝統的、古典主義的な作品が理想とされ、これらの理想化された様式を踏襲させていく、世界にもまれな教育システムであった。
1648年ルイ14世は王立建築物の各種美術工芸や装飾を担当させる人材の育成を要請し、枢機卿ジュール・マザランアカデミー・フランセーズ(フランス王立アカデミー)の付属学校として美術学校を設立した。その後古典主義建築の母体となる建築アカデミーが1671年に時の宰相ジャン=バティスト・コルベールによって創設された。これらのアカデミーは古典主義芸術の進展を促す母体となっていき、ルイ14世からルイ16世までの旧制度化においてフランスで絶対的な地位を確立するにいたった。また1666年にはローマにフランス・アカデミーを設置し、本国から選りすぐりの芸術家を古典文化の発掘と接収を目的に派遣するようになった。留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせているのはこのためで、この毎年各芸術分野ごとに1名をローマ留学生を選抜し数年滞在させる制度はのちのボザールにも引き継がれたが、総括する美術アカデミーの終身書記に就任したカトルメール・ド・カンシーなどは新古典主義芸術に対して深い造詣を発揮し、とくに古代建築に関心を寄せウィトルウィウスを再解釈した大著を著し、古代建築の復元を試み、後に自身が主宰して編纂した建築辞典には古代ギリシャの建築に建築の原型を求め、さらに建築史的な理解の必要性を説いている。こうしたカンシーの一連の作業はパエストゥムの古代ギリシャ神殿の発掘からギリシャ建築再評価・グリーク・リバイバルの思潮をさらに一段と高める。そうした古代建築を深く学ぶために大半が崩れ落ちた古代の遺跡を建築家が自らの観念に基づいて復元する主張はのちのフランス・アカデミーにおける留学生の研修方法に大きな影響を与えた。ボザール建築アカデミー発足に当たって建築史講座の設置を唱え、J・H・ヌイノーをその教授に任命したのはそのためとされる。
1789年に勃発したフランス革命によって、革命に共鳴した若い芸術家たちは旧体制のアカデミーに対抗して芸術コミューンを成立させ、1793年には王立アカデミーは廃止されたが、建築アカデミーは教授をつとめていたジュリアン・ダヴィド・ルロワがコミューンとして主宰することで学校は存続する。その後18世紀なかばに旧アカデミーにかわり学士院が発足し、美術の教育機関が復活。さらにナポレオン失脚後の王政復古にともない、学士院の芸術部会はそのまま絵画・彫刻・建築の3分野の、各芸術アカデミーと呼称を変更し発足する。この王政復古の時期に、フランスではさまざまな組織や期間が整理と統廃合が行われ、別々の芸術アカデミーであった絵画・彫刻・建築などもひとつに統合した教育機関の創設、学校名「エコール・ロワイヤル・エ・スペシアル・デ・ボザール」が、1816年12月18日国王命令により決定される。こうして1819年に、名称を国立の美術学校(エコール・デ・ボザール)に改称となった。当初学生は男性のみで、女性は1897年から入学を許可された。
カリキュラムは画家と彫刻家育成の「絵と彫刻アカデミー」と建築家育成の役割を果たすセクション「建築アカデミー」に分割される。今日その名を残す有名な芸術家の多くがここで訓練され、エドガー・ドガウジェーヌ・ドラクロワジャン・オノレ・フラゴナールドミニク・アングルクロード・モネギュスターヴ・モローピエール=オーギュスト・ルノワールジョルジュ・スーラアルフレッド・シスレーなどの名が挙げられる。
両方のプログラムは、留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせ、当然のことながら入学、その後の学習に対し学生全員が古典芸術の教養と絵画表現の基本技量を求められた。また、年1回グラン・プリ・ドゥ・ローム(ローマ大賞)というコンクールを主催し、受賞者にはローマで研究するために全額給与の奨学金を与えていた。賞を入手する3つのトライアルがおよそ3カ月に1回続く。前身のアカデミー時代から実施されていた制度である、各分野の専門家がパトロン・担当教育者となるアトリエ制を採用し、その後150年にわたって徒弟制度に似せた方式で学生を教育していった。大革命から第一帝政にかけてすでにアカデミーを取り巻く形でいくつかのアトリエが存在し、入学を許可された学生らが師匠たる芸術家のもとで修行に励んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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