翻訳と辞書
Words near each other
・ ウマル1世
・ ウマル2世
・ ウマル2世 (ウマイヤ朝)
・ ウマルコート
・ ウマルコート城
・ ウマル・イブン・ハッターブ
・ ウマル・イブン=ハッターブ
・ ウマル・カイヤーム
・ ウマル・カラバネ
・ ウマル・カラーミー
ウマル・ハイヤーム
・ ウマル・ハイヤーム (小惑星)
・ ウマル・ハン
・ ウマル・ハーン
・ ウマル・バシール
・ ウマル・ムスタファ・アル=ムンタシル
・ ウマル・ヤラドゥア
・ ウマル憲章
・ ウマワカ
・ ウマワケーニョ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ウマル・ハイヤーム : ミニ英和和英辞書
ウマル・ハイヤーム[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウマル・ハイヤーム : ウィキペディア日本語版
ウマル・ハイヤーム[ちょうおん]

ウマル・ハイヤーム (、1048年5月18日? - 1131年12月4日?)は、セルジューク朝ペルシア学者詩人ニーシャープール(現イランラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)出身。イラン・イスラーム文化の代表者。ウマルの名を現代ペルシア語風に読んでオマル・ハイヤームともいう。全名アブー・ハフス・ウマル・イブン・イブラーヒーム・ハイヤーミー・ニーシャーブーリー。「ハイヤーム」は「天幕造り」の意味であり、ハイヤームの父親の職業が天幕造りであったことから、このように呼ばれている。
数学天文学に通じた学者としてセルジューク朝のスルターンであるマリク・シャーに招聘され、メルヴ天文台暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであった。
また、無常観が言葉の端々に表れるペルシア語によるルバーイイ(四行詩)を多数うたい、詩人としても高い評価を得ていた。彼のルバーイイを集めた作品集は『ルバイヤート』として、故地イランのみならず、各国で翻訳され出版されている。

== ハイヤームと二人の学友 ==
ハイヤームはニーシャープールの職人の一家出身だと考えられている。幼少期をバルフの町で過ごし、その地で学び、また当時にあってもっとも著名な学匠の一人であったシャイフ・ムハンマド・マンスーリーから個人的な指導を受けた。青年時代には、ホラーサーン地域におけるもっとも偉大な師の一人と見なされていたニーシャープールのイマーム・ムワッファクのもとで研究に勤しんだ。
(伝承では)、イマーム・ムワッファクの許で、同じ頃、二人の優れた学生がまた研究を始めていたのであり、そのうちの一人は、後にセルジューク朝の二人の君主にワズィール(宰相)として仕えたニザーム・アル=ムルクであり、いま一人は暗殺教団ニザール派)の指導者となり隠然たる勢力を築いたハサニ・サッバーフであるという。
卓越した指導者のもとで学んだ者は、誰であっても栄誉と幸運を得ると、当時広く信じられていた。ハイヤームを初めとする三人の学生は友人となり、彼らのうちの誰か一人が幸運に与ることができたならば、互いに幸運を等しく分け合うことを誓約した。ニザーム・アル=ムルクがワズィールとなってのち、ハサニ・サッバーフとウマル・ハイヤームはそれぞれニザーム・アル=ムルクを訪ね、幸運の分け前を求めた。
ハサニ・サッバーフは、帝国の高官の地位を求め、ニザームはハサニの希望を叶えた。しかしハサニの野心は大きく、恩人であるはずのワズィールを失脚させようとして失敗した試みに加担した結果、権力を失った。はるか後年になって、ハサニは暗殺教団の長となって権力を握った。
ウマル・ハイヤームは誓約の履行において、遙かに控えめであり、高官の地位を求めることなく、生活し、科学を研究し、祈ることのできる場所を求めた。ウマルは、ニーシャープールの財務庫より1200ミスカルの黄金を年金として毎年受け取る権利を得た。
(以上の、ウマルを含む三人の人物の逸話は有名であるが、あくまで伝承であり、史実としては確認されていない)。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウマル・ハイヤーム」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.