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イワン・ツルゲーネフ : ミニ英和和英辞書
イワン・ツルゲーネフ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

イワン・ツルゲーネフ : ウィキペディア日本語版
イワン・ツルゲーネフ[ちょうおん]


イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(、1818年11月9日ユリウス暦10月28日) - 1883年9月3日(ユリウス暦:8月22日))は、フョードル・ドストエフスキーレフ・トルストイと並んで、19世紀ロシア文学を代表する文豪である。ロシア帝国貴族
なお名前の表記は「ツルゲーネフ」の他、ロシア語の発音に近い「トゥルゲーネフ」という表記も用いられる。
== 概要 ==
ロシア中部オリョールに、地主貴族の家庭の次男として生まれる。デカブリストの乱において、「」()を設立したも同じ一族である。
15歳でモスクワ大学教育学部に入学、1年後、ペテルブルク大学哲学部に転じる。1838年から1841年までベルリン大学哲学や古典語を学ぶ。1843年、内務省に職を得るが翌年に辞す。1842年、批評家・ベリンスキーに会い、以後、親交を続けた。1843年、叙事詩『パラーシャ』()を発表。その年、夫と子のあるオペラ歌手、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドに一目惚れし、彼女を追ってパリに移り住んだ。それ以後、西欧とロシアを往復する生活が終生続いた。
1847年から雑誌に発表された『猟人日記』(1852年)で、貧しい農奴の生活を描き、農奴制を批判したことで逮捕・投獄される。この作品は(1861年)に大きな役割を果たした。その後も、1854年の『』でも地主のもとで使われる農奴たちの悲劇と精神の解放を描いている。
『』(1850年)や『』(1856年)では、高い理想と教養をもちながらも現実に対しては無力ないわゆる「余計者」を描いた。その後も、政治社会的な問題を主題とした『』(1859年)、『』(1860年)、『処女地』(1877年)などを次々と発表し、社会論争を巻き起こした。理想主義的な父の世代と、唯物論的な子の世代の相克を描いた『父と子』(1862年)は、19世紀のロシア小説の最高傑作の一つに挙げられる。
自伝的な作品として『』(1858年)、『初恋』(1860年)なども残している。
長く住んだパリで、西欧の作家・芸術家たちとの幅広い交友関係を築き、西欧へのロシア文学の紹介に大きな役割を果たした。1883年、パリ郊外のブージヴァルで没し、ペテルブルクでは国葬が営まれた。
日本ではいち早く二葉亭四迷によって翻訳・紹介され、特に国木田独歩田山花袋らの自然主義に大きな影響を与えた。''」()を設立したも同じ一族である。
15歳でモスクワ大学教育学部に入学、1年後、ペテルブルク大学哲学部に転じる。1838年から1841年までベルリン大学哲学や古典語を学ぶ。1843年、内務省に職を得るが翌年に辞す。1842年、批評家・ベリンスキーに会い、以後、親交を続けた。1843年、叙事詩『パラーシャ』()を発表。その年、夫と子のあるオペラ歌手、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドに一目惚れし、彼女を追ってパリに移り住んだ。それ以後、西欧とロシアを往復する生活が終生続いた。
1847年から雑誌に発表された『猟人日記』(1852年)で、貧しい農奴の生活を描き、農奴制を批判したことで逮捕・投獄される。この作品は(1861年)に大きな役割を果たした。その後も、1854年の『』でも地主のもとで使われる農奴たちの悲劇と精神の解放を描いている。
『』(1850年)や『』(1856年)では、高い理想と教養をもちながらも現実に対しては無力ないわゆる「余計者」を描いた。その後も、政治社会的な問題を主題とした『』(1859年)、『』(1860年)、『処女地』(1877年)などを次々と発表し、社会論争を巻き起こした。理想主義的な父の世代と、唯物論的な子の世代の相克を描いた『父と子』(1862年)は、19世紀のロシア小説の最高傑作の一つに挙げられる。
自伝的な作品として『』(1858年)、『初恋』(1860年)なども残している。
長く住んだパリで、西欧の作家・芸術家たちとの幅広い交友関係を築き、西欧へのロシア文学の紹介に大きな役割を果たした。1883年、パリ郊外のブージヴァルで没し、ペテルブルクでは国葬が営まれた。
日本ではいち早く二葉亭四迷によって翻訳・紹介され、特に国木田独歩田山花袋らの自然主義に大きな影響を与えた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イワン・ツルゲーネフ」の詳細全文を読む




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