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イディス・ネスビット : ミニ英和和英辞書
イディス・ネスビット
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


イディス・ネスビット ( リダイレクト:イーディス・ネズビット ) : ウィキペディア日本語版
イーディス・ネズビット

イーディス・ネズビット(Edith Nesbit, 1858年8月15日 - 1924年5月4日)は、イギリスの小説家、詩人。E・ネズビットの名義で多くの児童文学を書いた。共著書も合わせると60冊以上の本を刊行し、いくつかは後に映像化もなされた。彼女は政治活動家でもあり、フェビアン協会の初期のメンバーの一人であった。結婚後の本名はイーディス・ブランド(Bland)。日本語表記は、名がエディスとも、姓はネスビットともされる。
==経歴==
サリー州ケニントン(現在では大ロンドンの一部)で、農業化学者ジョン・コリス・ネズビットの娘として生まれた。父は彼女が四歳になる前に死亡した。病気がちだった姉の転地療養のため、3年間でブライトンバッキンガムシャー、フランス、スペイン、ドイツの各地に暮らし、その後ケント州ホールステッド(Halstead)に定住した。この地方の景観は後の作品『若草の祈り』に影響を与えた。
17歳の時、一家はロンドンに戻り、南東ロンドンの各所に住んだ。
1877年、ウィリアム・モリスの信奉者であった19歳のネズビットは、銀行員ヒューバート・ブランド(Hubert Bland, 1855年 - 1914年)と出会った。妊娠7ヶ月であった1880年4月22日に結婚した。ブランドはアリス・ホウトスンという女性とも関係を続けており、2人の子供を成した(この2人はネズビットに育てられた)。彼女自身の子供としては、ポール・ブランド(1880年 - 1940年)、アイリス・ブランド(1881年 - ?)、フェビアン・ブランド(1885年 - 1900年)がいる。
ネズビットとブランドは1883年からフランク・ポドモアとともに社会主義の討論を行っており、1884年のフェビアン協会の創設会員であった。彼らの息子フェビアンの名は、この協会にちなんでいる。彼らは協会の新聞「Today」の編集にも携わった。先述のアリス・ホウストンは協会の秘書であった。ネズビットとブランドはマルクス主義を信奉し〔Bennett, Phillippa, and Rosemary Miles (2010). ''William Morris in the Twenty-First Century''. Peter Lang. ISBN 3034301065. p. 136.〕〔 〕 、ヘンリー・ハインドマン社会民主連合のメンバーであり、彼らはこの組織と関わりを持った。また「フェビアン・ブランド」の共同ペンネームで物も書いたが成功しなかった〔''The Prophet's Mantle'' (1885), a fictional story inspired by the life of Peter Kropotkin in London.〕。
ネズビットは1899年から1920年までケント州エルタムEltham:現・大ロンドン南東部)で暮らした。1917年2月20日(夫ブランドの死の三年後)、彼女は造船技師のトーマス・タッカーという人物と結婚した。
恐らくは過度の喫煙により、舌癌を患って1924年に没。。セント・メアリ・イン・ザ・マーシュSt. Mary in the Marsh)の墓地に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イーディス・ネズビット」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 E. Nesbit 」があります。




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