翻訳と辞書
Words near each other
・ イェニー・ハッセルキスト
・ イェニー・リンド
・ イェヌーファ
・ イェネイ・イムレ
・ イェネイ・ミハーイ・ラヨシュ
・ イェネ・ヤンドー
・ イェネー
・ イェネー・カルマール
・ イェネー・ザードル
・ イェネー・タカーチュ
イェネー・フバイ
・ イェネー・ブザーンスキー
・ イェネー・ヤンドー
・ イェヒエル・デ・ヌール
・ イェファダ・バコン
・ イェファー
・ イェファー航空基地
・ イェフィム
・ イェフィム・ゴリシェフ
・ イェフィム・シチャデンコ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

イェネー・フバイ : ミニ英和和英辞書
イェネー・フバイ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

イェネー・フバイ : ウィキペディア日本語版
イェネー・フバイ[ちょうおん]

イェネー・フーバイJenő Hubay, 1858年9月15日 ペシュト - 1937年3月12日 ブダペスト
ハンガリーヴァイオリニスト作曲家・音楽教師。ドイツ系ユダヤ人音楽家の家庭に生まれ、正しくはオイゲン・フーバー(またはフーベル、Eugen Húber)〔ハンガリー語風にはフーベル・イェネー、Huber Jenő ɛnøː )となる。〕といったが、フランス語圏で生活していた二十歳の頃から、好んで「マジャル風」の姓名を名乗るようになった。
ハンガリー国立歌劇場のコンサートマスターならびにブダペスト音楽院教授をつとめる父親カーロイから、ヴァイオリンと音楽の手ほどきを受け、11歳になるまでにヴィオッティの協奏曲を演奏して公開デビューを飾った。
13歳でベルリンに留学、5年間にわたってヨーゼフ・ヨアヒムの薫陶を受ける。その後1878年に、リストの助言を容れてパリでデビュー、大成功をおさめ、会場に居合わせたヴュータンと親交を結ぶと同時に、指導を仰ぐ。1882年ブリュッセル音楽院ヴァイオリン科の主任教授に採用されるが、1886年に帰国し、父親の後任教授としてブダペスト音楽院に転職した。
主要な門人にティボール・ヴァルガヨゼフ・シゲティエンドレ・ジェルトレルのほか、後に指揮者に転向したユージン・オーマンディライプツィヒでコンサートマスターとして活躍したジェルジ・ガライ等がいる。また、シュテフィ・ゲイエルバルトークの初恋の相手で、最初のヴァイオリン協奏曲を献呈された)やイェリー・ダラーニ(ヨアヒムの姪でイギリスとフランスで活躍、ラヴェルの『ツィガーヌ』作曲の協力者)のような女性ヴァイオリニストも数多い。
演奏活動では、ソリストとして、ヴュータンやブラームスから称賛を勝ち得たばかりでなく、室内楽奏者として、ブリュッセル時代とブダペスト時代の2度にわたって、弦楽四重奏団を結成した。愛器はストラディヴァリウスであった。
恩師ヨアヒムも作曲をしたが、決して創作数が多くないのに対して、フーバイは4つの協奏曲やおびただしい数のアンコールピースを作曲している。協奏曲はハンガリーの民族色(より正確には、ハンガリー・ジプシーの民族色)が濃厚だが、《そよ風》などのアンコールピースは、メンデルスゾーンシューマンなどの、ドイツ・ロマン派音楽の延長上で作曲されている。これは室内楽演奏のパートナーであるチェリストの、ダヴィッド・ポッパーの作風とも共通している。

==註==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イェネー・フバイ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.