翻訳と辞書
Words near each other
・ アルメニアンダンスパート1
・ アルメニアンダンスパート2
・ アルメニアン・ダンス
・ アルメニアン・ダンス (リード)
・ アルメニアン・ディアスポラ
・ アルメニアン・ラプソディ
・ アルメニアン・ラプソディー
・ アルメニア・インデペンデンスカップ
・ アルメニア・カップ
・ アルメニア・スーパーカップ
アルメニア・ソビエト社会主義共和国
・ アルメニア・ソビエト社会主義共和国の国旗
・ アルメニア・ソビエト社会主義共和国の旗
・ アルメニア・フィルハーモニー管弦楽団
・ アルメニア・プレミアリーグ
・ アルメニア人
・ アルメニア人のディアスポラ
・ アルメニア人の一覧
・ アルメニア人ジェノサイド
・ アルメニア人ディアスポラ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アルメニア・ソビエト社会主義共和国 : ミニ英和和英辞書
アルメニア・ソビエト社会主義共和国[あるめにあ そびえとしゃかいしゅぎきょうわこく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ソビエト社会主義共和国 : [そびえとしゃかいしゅぎきょうわこく]
 【名詞】 1. soviet socialist republic 2. SSR
: [やしろ]
 (n) shrine (usually Shinto)
社会 : [しゃかい]
 【名詞】 1. society 2. public 
社会主義 : [しゃかいしゅぎ]
 【名詞】 1. socialism 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 
会主 : [かいしゅ]
 (n) sponsor of a meeting
: [ぬし, おも]
 【名詞】 1. owner 2. master 3. lover 4. god 
主義 : [しゅぎ]
 【名詞】 1. doctrine 2. rule 3. principle 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
: [ども]
  1. (suf) indicates plural - humble referring to oneself, disdainful referring to others 
共和 : [きょうわ]
 【名詞】 1. republicanism 2. cooperation 
共和国 : [きょうわこく]
 【名詞】 1. republic 2. commonwealth 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

アルメニア・ソビエト社会主義共和国 : ウィキペディア日本語版
アルメニア・ソビエト社会主義共和国[あるめにあ そびえとしゃかいしゅぎきょうわこく]

アルメニア・ソビエト社会主義共和国(アルメニア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、、)は、1920年アルメニア第一共和国を倒して成立した社会主義国家1922年グルジアアゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を介してソビエト連邦構成共和国となり、1936年にその2国と分離してからも1991年ソ連崩壊まで存在した。アルメニア史においては、それまで農業国であったアルメニア工業国への転換を果たした時代でもある。ソ連から独立を宣言したのは1991年のことだが、1995年の改正まではソビエト国家の機構を保持したままであった。
== 歴史 ==

=== 共産化 ===

1828年から1917年ロシア革命に至るまで、アルメニアはとしてロシア帝国の一部に組み込まれていた。二月革命後、南カフカースでは社会民主主義勢力が台頭し、3国はそれぞれグルジアメンシェヴィキアゼルバイジャンミュサヴァト党、アルメニアのダシュナク党の指導の下に共同してザカフカース民主連邦共和国を形成、ロシア帝国からの独立を果たした〔北川ほか(2006) 116頁〕。しかし、翌1918年3月のオスマン軍の侵入によって連邦は崩壊し、5月にグルジアはドイツ軍の保護下で、アゼルバイジャンはオスマン軍の影響下で、そしてアルメニアはダシュナク党の指導下でそれぞれ個別に独立を宣言した〔。しかし、こうして独立したアルメニア第一共和国も、オスマン帝国の後を継いだトルコ共和国とので疲弊したところを赤軍に侵攻され、短期間のうちに共産主義勢力へ権力を移譲した。エレヴァンに暫定軍事革命員会が発足したのは、1920年12月3日午前0時のことである(この委員会は5人の共産主義者と2人の左派ダシュナク党員から成っていた)〔中島、バグダサリヤン(2009) 93頁〕。続く1921年から翌年までに1400人の元第一共和国軍将校が逮捕され、リャザンの収容所へ送られた。
1921年、トルコとアルメニア、グルジアアゼルバイジャンの各ソビエト共和国の間でが結ばれ、これによってトルコはアジャリアを手放す代わりにカルス地方を得ることが定められた〔吉村(2009) 41-42頁〕。この時にトルコ側に割譲された地域の中には、中世アルメニアの首都であったや、アルメニア人の精神的シンボルであるアララト山が含まれていた〔。さらにその後、ロシア・ソビエト連邦共和国民族問題人民委員であったヨシフ・スターリンは、ナヒチェヴァンナゴルノ・カラバフもアゼルバイジャンの領土とすると決定した。この二つの地域はどちらも、1920年にボリシェヴィキがアルメニアの領土であると保証していたはずのものだった〔〔中島、バグダサリヤン(2009) 153頁〕。
1922年3月12日から1936年12月5日までの間、アルメニアはグルジアとアゼルバイジャンと共にザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成した。この頃のアルメニア革命委員会はサルキス・カシヤンやアヴィス・ヌリジャニャンといった、若く経験の浅い急進的共産主義者によって率いられていた。彼らのとった政策は、国家の厳しい情勢や紛争による人民の疲弊を考慮しない、威圧的な手法によるものだった。ソビエト・アルメニアの歴史家であるバグラット・ボリヤンは1929年に次のように書いている〔アレム(1986) 81頁〕。
地元のチェーカーによって引き起こされたこのような徴発行動とテロに対して、共和国の元指導者たちに率いられたアルメニア人たちは、1921年2月に反乱を起こし、エレバンから共産勢力を一度は追放している〔吉村(2004) 3頁〕。しかし、グルジアを支配していた赤軍が呼び戻され、反乱は鎮圧された〔。
やがてモスクワは、それらの強硬な政策が地元住民との乖離を招いていると気付き、よりアルメニア人の心情に通じた経験豊富な穏健派のアレクサンドル・ミャスニコフを現地に派遣した〔 - 〕。さらに同時期にネップが重なり、アルメニアは相対的に安定した状態となった。この頃のアルメニアはオスマン帝国末期の激動とは対照的な平穏を保ち、人民は中央政府から薬品や食糧などの物資を受け取り、また識字率にも大幅な向上が見られた。一方で、アルメニア使徒教会には共産主義の下で苦難の時代が続いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アルメニア・ソビエト社会主義共和国」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.