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アラン・トゥーサン : ミニ英和和英辞書
アラン・トゥーサン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アラン・トゥーサン : ウィキペディア日本語版
アラン・トゥーサン[ちょうおん]

アラン・トゥーサン (Allen Toussaint, 1938年1月14日 - 2015年11月10日)は、米国ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれのピアニスト歌手ソングライタープロデューサー、アレンジャー。自らの演奏活動の他に、特に1960年代から70年代にかけて数多くのアーティストのプロデュース、作曲、編曲を手がけ、ニューオーリンズのR&Bシーンを影から支えてきた。彼が関わったアーティストは、アーマ・トーマスリー・ドーシーアーニー・ケイドーミーターズラベルポール・サイモンザ・バンドなど、広範囲に渡る。
==来歴==
7歳のときにピアノを弾き始め、1952年、フラミンゴス(ドゥーワップのグループとは同名異グループ)を結成。このバンドにはギターにスヌークス・イーグリンが在籍していた。1955年デイヴ・バーソロミューの目に留まり、ファッツ・ドミノスマイリー・ルイスらのセッションに参加するようになる。これを機に、セッション・ピアニストとして名を上げていった。そして1958年リー・アレンのヒット"Walkin' With Mr. Lee"のアレンジを担当してからは、編曲者としても評価を受けるようになる。同年、初のソロ作『The Wild Sound of New Orleans』も発表している。
1960年、トゥーサンはミニット・レーベルにディレクターとして迎え入れられ、彼のプロデュース、作曲による数多くのヒット曲が世に送り出されるようになった。その中にはジェシー・ヒルの「Ooh Poo Pah Doo」やベニー・スペルマンの「Fortune Teller」(ローリング・ストーンズのカバーでも有名)、アーマ・トーマスの「It's Raining」、リー・ドーシーの「Working in the Coal Mine](1966)などがある。当時彼は、自分の母親の旧姓である"Naomi Neville"のペンネームで曲を書いていた。60年代トゥーサンは、インスタント、フューリーなどのレーベルでも同様の活躍をし、ニューオーリンズのシーンに大きな足跡を残した。また、1965年にはマーシャル・シホーンとサンス・レーベルを興している。
60年代は、自らの作品よりも他のアーティストのプロデューサーとして活躍したトゥーサンだが、70年代になると『From a Whisper to a Scream』(1970年)を始めとして、自己名義のアルバムを複数リリースした。『''Southern Nights''』(1975年)は、彼の代表作と言われている。アルバムに収められた「サザン・ナイツ」は1977年グレン・キャンベルによってカバーされ、キャンベルのバージョンはビルボード・Hot 100で1位を獲得した〔List of Billboard Hot 100 number-one singles of 1977〕。また1973年に「イエス・ウィ・キャン・キャン」をポインター・シスターズがカバーしヒットした。
70年代には、マーシャル・シホーンと共同でシーセイント・スタジオを開設した。ラベルの「レディ・マーマレード」は彼のプロデュースにより、1975年に大ヒットした。他にも、ドクター・ジョンの『In The Right Place』(1973年)や『Desitively Bonnaroo』(1974年)、アルバート・キングの『New Orleans Heat』(1978年)をプロデュースしたり、ウイングスの『Venus And Mars』(1975年)にピアノで参加するなど、幅広く活躍。
80年代以降は、目立った活動は少ないが、1996年にはナイノ(Nyno)レーベルを設立(レーベル名はニューヨークとニューオーリンズの頭文字を取ったものである)。同レーベルからは、自身のアルバム『Connected』(1996年)をはじめ、オリバー・モーガンレイモンド・マイルズなど、ニューオーリンズのアーティスト達がアルバムをリリースしている(ただし、2007年現在、同レーベルは休眠状態である)。また、1998年には、ロックの殿堂の非演奏者部門入りを果たした。
2005年ハリケーン・カトリーナで被災し、ニューオーリンズ市内の彼の家もシーセイント・スタジオも全壊してしまった。彼は、以後ニューヨークに拠点を構えていたが、2009年現在、ニューオーリンズに戻っていている〔OffBeat magazine - Down by the River by Alex Rawls 〕。カトリーナ以降、数々のカトリーナ関連のベネフィット・コンサート、CDなどに参加するようになった。また、エルヴィス・コステロとの共作『The River In Reverse』(2006年)をリリース、中島美嘉のシングル「All Hands Together」にも参加するなど、存在感を高めている。2006年5月には、プロモーションのため、久々に来日、東京のクラブでソロ・コンサートを開いた。
2009年、収録曲のほとんどがインストゥルメンタルジャズ・アルバム『The Bright Mississippi』をノンサッチ・レコードからリリースした。
2015年、マドリッドでのコンサートの後に心臓発作にて死去〔アラン・トゥーサンが死去 CAMMAS 2015年11月10日閲覧〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アラン・トゥーサン」の詳細全文を読む




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