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アメリア・スプリングスの戦い : ミニ英和和英辞書
アメリア・スプリングスの戦い[たたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

アメリア・スプリングスの戦い : ウィキペディア日本語版
アメリア・スプリングスの戦い[たたかい]

アメリア・スプリングスの戦い(アメリア・スプリングスのたたかい、)は、南北戦争も最終盤となった1865年4月5日に、バージニア州アメリア郡で起きたアポマトックス方面作戦の戦闘である。4月2日に起きた第三次ピーターズバーグの戦い(ピーターズバーグの突破、あるいはピーターズバーグの陥落とも呼ばれる)の後で、アメリカ連合国の首都リッチモンド市ピーターズバーグ市が陥落し、両市を脱出した南軍(北バージニア軍とリッチモンドの防衛軍)が西方に逃亡し、これを追撃した北軍ポトマック軍シェナンドー軍ジェームズ軍)との戦闘になった。戦闘は4月5日日中と、その夜から翌6日朝にかけての2回、ほぼ同じ場所で行われた。この戦闘は、翌6日のセイラーズクリークの戦いと共に、ユリシーズ・グラント中将が全軍指揮する北軍と、ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍との間の最後の会戦とされ、4月9日のアポマトックス・コートハウスの戦い後にリーの北バージニア軍降伏に繋がった。
1865年4月5日、南軍マーティン・ゲイリー准将の指揮する騎兵隊が、フィッツヒュー・リー少将の全体指揮下にあるトマス・ロッサー少将とトマス・T・マンフォード大佐の師団の騎兵から支援を受け、北軍ヘンリー・E・デイビース・ジュニア准将の率いる騎兵1個旅団に反撃した〔Davis, Burke, 1981 ed., p. 231.〕〔Longacre, 2000, p. 329.〕。デイビースの旅団はジョージ・クルック少将の師団に属し、その師団はフィリップ・シェリダン少将の全体指揮下にあった〔。デイビース隊は、ジーターズビルの北約7マイル (11 km) のペインビル近くで南軍の荷車を燃やした偵察行動から戻る途中だった〔。荷車は北バージニア軍のために物資と装備を運んでいた。ペインビルの後、アメリア・スプリングスの北3マイル (5 km) で走りながらの戦いが始まり、サウスサイド鉄道沿いのジーターズビルに近いアメリア・スプリングスまで続いた。ジーターズビルは、リー軍が集結していたアメリア・コートハウスから南西6マイル (9.7 km) にあり、1日前からシェリダン軍が保持していた〔Davis, 1981, pp. 202–203〕。この戦闘自体は決着が付いていない。デイビース隊がジーターズビルに近づいているときに北軍の他の部隊と合流でき、南軍はアメリア・スプリングスに退き返さざるを得なくなった。4月5日夜、ネルソン・マイルズ准将とガーショム・モット少将の指揮する北軍の師団が、アメリア・スプリングスの近くで、南軍ジョン・B・ゴードン少将の指揮する北バージニア軍後衛部隊と小さな戦闘を行い、これも決着はつかなかった〔Salmon, John S. ''The Official Virginia Civil War Battlefield Guide''. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2001. ISBN 978-0-8117-2868-3. p. 476. Davies, 1895, p. 240 ではジーターズビルから8マイル (13 km) で遭遇したとしている〕。
2つの戦闘による両軍の損失は少なかった。両軍合わせても250名以下とされている。北軍指揮官は損失を158名と報告した。南軍は恐らく100名未満だった〔Eicher, 2001, p. 815 デイビース隊の損失を戦死20名、負傷96名としている。〕。さらに、デイビース隊は反撃を受ける直前の戦闘で300名以上を捕虜に取っていた。その後にアメリア・スプリングスを越えてほとんどジーターズビルに行くまでの走りながらの戦闘となった〔〔Davis, 1981, p. 232 デイビースは捕虜約1,000名、大砲5門、数百頭のラバを捕獲し、荷車180両を破壊したと言っている。このことは、デイビース自身の著作の中でこの戦闘に簡単に触れている内容と一致している。 1895, pp. 239–240. Eicher, 2001, p. 815 デイビースは捕虜700名を取り、荷車200両を破壊したと言っている。これにはリー将軍の作戦本部にあった多くの文書類も含まれていた。〕。
== 背景 ==

=== ピーターズバーグの包囲と突破 ===

292日に及んだリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦(ピーターズバーグ包囲戦)の間、北軍の総司令官ユリシーズ・グラントは塹壕と消耗戦の作戦を遂行するしかなくなった。数的に劣勢な南軍を消耗させ、ピーターズバーグとリッチモンドへの供給源と供給線を破壊または遮断し、防衛線を長くさせることで弱っていく南軍に限界まで守らせるようにすることだった〔Hess, Earl J. ''In the Trenches at Petersburg: Field Fortifications & Confederate Defeat''. Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2009. ISBN 978-0-8078-3282-0. pp. 18–37.〕〔Beringer, Richard E., Herman Hattaway, Archer Jones, and William N. Still, Jr. ''Why the South Lost the Civil War''. Athens: University of Georgia Press, 1986. ISBN 978-0-8203-0815-9. pp. 331–332.〕〔Trudeau, Noah Andre. ''The Last Citadel: Petersburg, Virginia, June 1864–April 1865''. Baton Rouge: Louisiana State University Press, 1991. ISBN 978-0-8071-1861-0. p. 18.〕。1865年2月5日から7日に起きたハッチャーズランの戦いの後、前線はさらに4マイル (6.4 km) 伸び、リーが新しい守備隊を入れた後はもう予備隊がほとんど無かった〔Weigley, Russell F. ''A Great Civil War: A Military and Political History, 1861–1865''. Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press, 2000. ISBN 0-253-33738-0. p. 433.〕。リーはその軍隊でこれ以上防御を維持できないと考え、さらに戦争を継続するためには、その軍隊の一部あるいは全軍がリッチモンドとピーターズバーグを離れ、ダンビルあるいはおそらくリンチバーグで食料や物資を補給し、ノースカロライナ州で北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍に対抗しているジョセフ・ジョンストン将軍の軍隊と合流しなければならないことが分かっていた。南軍が即座にシャーマン軍を破れなければ、グラント軍がシャーマン軍の残りと合流できる前に、グラント軍に対抗するために戻って来ることになるはずだった〔Greene, A. Wilson. ''The Final Battles of the Petersburg Campaign: Breaking the Backbone of the Rebellion''. Knoxville: University of Tennessee Press, 2008. ISBN 978-1-57233-610-0. p. 154.〕〔Calkins, Chris. ''The Appomattox Campaign, March 29 – April 9, 1865''. Conshohocken, PA: Combined Books, 1997. ISBN 978-0-938-28954-8. pp. 14, 16.〕〔Hess, 2009, p. 253.〕〔Longacre, Edward G. ''The Cavalry at Appomattox: A Tactical Study of Mounted Operations During the Civil War's Climactic Campaign, March 27 – April 9, 1865''. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2003. ISBN 978-0-8117-0051-1. p. 39.〕。
1865年3月28日から29日の夜に始まった北軍の攻勢により、ルイス農園の戦いホワイトオーク道路の戦いディンウィディ・コートハウスの戦いと続き、4月1日のファイブフォークスの戦いと4月2日の第三次ピーターズバーグの戦いによって、グラントの北軍は遂にピーターズバーグの防衛線を突破した。同じく4月2日午後に起きたサザランド駅の戦いで、北軍のネルソン・マイルズ准将の指揮する師団がサウスサイド鉄道の最後の防衛線を突破し、南軍の供給線と退路をも遮断した。リー将軍の北バージニア軍は、4月2日から3日にかけての夜中にピーターズバーグとリッチモンド両市から脱出し、ダンビルへの行軍を開始した。その先はノースカロライナ州でウィリアム・シャーマン少将の指揮する北軍の侵攻を遅らせようとしていたジョセフ・ジョンストンの軍隊と合流することが期待されていた〔Woodworth, Steven E., and Kenneth J. Winkle. ''Oxford Atlas of the Civil War''. New York: Oxford University Press, 2004. ISBN 978-0-19-522131-2. p. 326.〕〔Bearss, Edwin C., with Bryce A. Suderow. ''The Petersburg Campaign''. Vol. 2, ''The Western Front Battles, September 1864 – April 1865''. El Dorado Hills, CA: Savas Beatie, 2014. ISBN 978-1-61121-104-7.〕〔Greene, A. Wilson. ''The Final Battles of the Petersburg Campaign: Breaking the Backbone of the Rebellion''. Knoxville: University of Tennessee Press, 2008. ISBN 978-1-57233-610-0.〕〔Horn, John. ''The Petersburg Campaign: June 1864-April 1865''. Conshohocken, PA: Combined Publishing, 1999. ISBN 978-0-938289-28-9. p. 220. Retrieved February 11, 2015. 〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アメリア・スプリングスの戦い」の詳細全文を読む




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