翻訳と辞書
Words near each other
・ 1910年ウィンブルドン選手権
・ 1910年オーストラレーシアン選手権
・ 1910年代
・ 1910年代の建築
・ 1910年全米テニス選手権
・ 1910年全米選手権 (テニス)
・ 1910年全豪テニス選手権
・ 1911 (映画)
・ 1911年
・ 1911年のスポーツ
1911年のパリ・マドリード間レース
・ 1911年のメジャーリーグベースボール
・ 1911年のワールドシリーズ
・ 1911年の政治
・ 1911年の航空
・ 1911年の野球
・ 1911年ウィンブルドン選手権
・ 1911年オーストラレーシアン選手権
・ 1911年全米テニス選手権
・ 1911年全米選手権 (テニス)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

1911年のパリ・マドリード間レース : ミニ英和和英辞書
1911年のパリ・マドリード間レース[せんきゅうひゃくじゅういちねんのぱりまどりーどかんれーす]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [けん, ま]
 【名詞】 1. space 2. room 3. time 4. pause 

1911年のパリ・マドリード間レース : ウィキペディア日本語版
1911年のパリ・マドリード間レース[せんきゅうひゃくじゅういちねんのぱりまどりーどかんれーす]
1911年のパリ・マドリード間レース(せんきゅうひゃくじゅういちねんのパリマドリードかんレース)は、1911年5月21日から26日の間に行われた、飛行機によって最初に行われた本格的な長距離飛行レースである。文字通りパリからマドリード(マドリッド)までで行われた。
10万フラン賞金が懸けられ、1200kmの距離で争われるはずのレースだったが、当時の飛行機の技術レベルに対しては過酷なレースであり8機の参加機のうちマドリードまで飛行できたのは1機だけだった。出発時に大きな事故がおきた。
レースは3ステージに分けられ、第1ステージはパリからアングレーム、第2ステージはアングレームからスペイン国境のサンセバスチアン、第3ステージがマドリードまでであった。
==参加者==
参加者と乗機は以下のとおりである。
* アンドレ・ボーモン(André Beaumont:ブレリオ XI
* ピエール・ディヴァタン(Pierre Divétain:アンブローゼ・グーピー
* アンドリュー・フライ(André Frey: モラーヌ・ソルニエ)
* ローラン・ギャロス(Roland Garros:ブレリオ XI)
* ルイ・ジルベール(Louis Gibert:ブレリオ XI)
* ジルベール・ルラスール(Gilbert Le Lasseur de Ranzay:ブレリオ XI)
* エミール・ルイ・トラン(Emile Louis Train: トラン単葉機)
* ジュール・ヴェドリーヌ(Jules Védrines:モラーヌ・ソルニエ A)

ファイル:3b40731r.jpg|ブレリオ XI
ファイル:Goupy No.2.jpg|グーピーno2
ファイル:Emile Taddéoli monoplane.jpg|モラーヌ・ソルニエ A

==スタートと事故==
5月21日、20万人ともいわれる観衆が 飛行場に集まり、1911年5月21日の午前6時に参加者の離陸が始まった。ボーモンとジルベール、ギャロス、ルラスールは離陸に成功したが、フライは離陸に失敗し、ヴェドリーヌの飛行機は準備が整わず翌日出発することになった。
5番目に出発したトランの機は唯一、同乗者を乗せることができ、同乗者を乗せていたが、飛行機の調整は十分でなく、離陸すると飛行が不安定となり、出発点に戻ろうとして観衆の中に突っ込んでしまった。来賓の国防大臣モーリス・ベルトゥー () やフランス航空界の大御所、アンリ・ドゥッシュ=ド=ラ=ムルトらが負傷した。最も深刻だったのは国防大臣のモーリス・ベルトゥーでプロペラで頭と腕を負傷し、飛行場で死亡した。事故の様子は映画に記録されており、翌日パリで公開されたニュース映画は大きな衝撃を与えた。
==レースの結果==
第1ステージを飛行し、アングレームに到着できたのは、ギャロス、ジルベール、ヴェドリーヌの3人であった。
フライは に不時着しリタイアした。ルラスールは進路を失い、ボーモンは2時間以上を飛行したところで、プロペラを破損しリタイアした。ギャロスが390kmを4時間48分で飛行した。5月23日のサンセバスチアンまでの第2ステージに出発できたのは、ギャロスとヴェドリーヌだけになっていた。ヴェドリーヌが335kmを3時間45分で飛行し、ギャロスより2時間先着した。5月25日にスタートした第3ステージでギャロスは20km飛行したところで不時着し、再度飛び立ったがVitoria近くのOlazagutiaで飛行を中止した。ヴェドリーヌは夕刻、Burgosに着陸し、翌日の8時にマドリードから15kmのGetafe飛行場に到着して優勝した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「1911年のパリ・マドリード間レース」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.