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1798年5月30日の海戦 : ミニ英和和英辞書
1798年5月30日の海戦[1798ねん5がつ30にちのかいせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
: [つき]
  1. (n-t) moon 2. month 
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
海戦 : [かいせん]
 【名詞】 1. naval battle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

1798年5月30日の海戦 : ウィキペディア日本語版
1798年5月30日の海戦[1798ねん5がつ30にちのかいせん]

1798年5月30日の海戦(1798ねん5がつ30にちのかいせん、Action of 30 May 1798)は、フランス革命戦争中に、英仏それぞれの海軍の小戦隊がノルマンディー沖で交戦した小規模な海戦である。同じ月の始めに行われたサン・マルクフ諸島沖の海戦の後、イギリス海軍の封鎖艦隊の戦隊がこの海域の巡回を行っていた時、2隻のフランス艦がル・アーヴルシェルブールの間からこっそり出帆しようとしているのに出くわした。イギリスの指揮官であるは、そのフランス艦が、イギリス側が攻撃を仕掛ける前にル・アーヴルに戻ろうとしていたため、2隻に交戦するよう仕向けようとした。フランス艦は逃れられなくなり、ラフォリーの旗艦である5等艦は、フランスのフリゲート艦コンフィアントと交戦し、その一方でイギリスの小型艦2隻がフランスのコルベット艦であるヴェズーヴを追跡した。
短期間の砲撃戦の後、フランス艦は2隻ともの河口で、乗員により座礁させられた。この河口には、数隻の上陸用舟艇がイギリス支配下のサン・マルクフ諸島沖の海戦を避けてつながれていた。コンフィアントはひどく損傷しており、ヒドラや他のイギリス艦から乗り込んだ士官や乗員たちは、その翌朝この艦を焼き払うことが可能だった。ヴェズーヴはコンフィアントより被害が小さく、座礁後は沿岸の部隊がこの艦をイギリスの攻撃から守り、その後近くのの港で修理され、最終的にル・アーヴルに戻った。
==歴史的背景==

1798年、イギリス海軍は厳重な海上封鎖戦略を用いて、フランス海軍の出港阻止に成功し、フランス革命戦争中の海上覇権を確実なものにしていた〔。この戦略はとりわけ、イギリス海軍の基地近くの英仏海峡で効を奏していた。海峡近くのブローニュ周辺に駐留するフランスの侵攻軍が、イギリスの注意をノルマンディー沿岸に集めようとしていたが、その彼らの動きを抑えるのに重要な役割を果たしていたからだった。ムスケイン艦長の指示の下、さまざまな港で編成された、大規模なフランス海軍の上陸用舟艇部隊の集結を阻止するのがイギリスには不可欠であった〔Gardiner, p. 105〕。イギリス海軍による、ノルマンディー沿岸でのフランスの動向の監視能力を高めるために、シドニー・スミス艦長指揮下の部隊は、1795年に無人島であるサン・マルクフ諸島を占領し、そこに兵を駐留させた〔Woodman, p. 102〕。
1798年の春、ムスケインは50隻以上の上陸用舟艇をに集め、5月6日にサン・マルクフ島への攻撃を開始した。その間イギリスの封鎖艦隊は、強風と潮の高さから参戦することができなかった。しかしサン・マルクフ島は非常に防御が固く、フランスが攻撃をやめるまでに900人以上のフランス兵が戦死した。その後フランス軍は、生き残った兵をノルマンディー沿岸のあちこちに分散配置した。イギリス海軍はこれに呼応して、護送船団を阻止し、上陸用舟艇を破壊する目的でノルマンディー沿岸の巡回を増やした〔Gardiner, p. 107〕。1798年5月29日、エティエンヌ・ペヴリュー艦長指揮下の36門艦コンフィアントと、ジャン=バティスト=ルイ・ルコリエ海尉指揮下の20門艦ヴェズーヴの2隻のフランス艦が、ルアーブルから武装した小型のカッター船を伴って出帆し、からシェルブールを横切って西の方へと向かった〔James, p. 119〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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