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第39号駆逐艦 : ミニ英和和英辞書
第39号駆逐艦[だい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [ごう]
  1. (n,n-suf) (1) number 2. issue 3. (2) sobriquet 4. pen-name 
駆逐 : [くちく]
  1. (n,vs) extermination 2. expulsion 3. destruction 
駆逐艦 : [くちくかん]
 【名詞】 1. destroyer 
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

第39号駆逐艦 ( リダイレクト:叢雲 (吹雪型駆逐艦) ) : ウィキペディア日本語版
叢雲 (吹雪型駆逐艦)[むらくも]

叢雲(むらくも)は大日本帝国海軍駆逐艦#達昭和3年6月pp.7-8『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣岡田啓介|(略)第三十九號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 叢雲(ムラクモ)トス』〕〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ160『吹雪型 艦種:一等驅逐艦 艦名考:風波等気象に採る(略)叢雲(むらくも)【二代】』〕。一等駆逐艦吹雪型の5番艦〔#艦艇類別等級表(1941年12月31日)p.3『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|吹雪型|吹雪、白雪、初雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波、敷波、天霧、狭霧、夕霧、朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電、朝霧』(深雪は除籍済)〕。雲級の1番艦〔#ポケット海軍年鑑(1937)コマ47『一等驅逐艦 "叢雲むらくも" 全要目 一等驅逐艦中、特型と呼ばれるのがこの1,700頓驅逐艦である。12.7糎砲は6門、魚雷發射管は實に9門を有つてゐる大型驅逐艦である。長さ113.2米、幅10.3米、平均吃水2.97米。近頃は驅逐艦も航空機に對する兵装を改善し、更に新鋭なる武器を装備し、空中からの攻撃を反撃しつゝ戦闘をつゞけなければならない。水上にあつては隊伍を組んで主力艦に肉薄し魚雷戦を挑む外に水中の敵潜水艦を驅つて輕快なる運動と機敏なる操縦によつて爆雷をもつて戦ふのである。驅逐艦生活も亦、限りなく男兒を魅するかずかずの壮烈さをもつてゐる。雲級には"薄雲うすぐも" "白雲しらくも" "東雲しののめ"がある。』〕。当初の艦名は、第39号駆逐艦〔。この名を持つ帝国海軍の艦船としては東雲型駆逐艦「叢雲」に続いて2隻目〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ74『叢雲(むらくも)【初代】 明治37・8年戦役従軍(第五驅逐隊):明治37年8月10日黄海々戦(艦長少佐松岡修藏)、同38年5月27日、日本海々戦に参加(艦長少佐島内桓太)、大正8年4月1日驅逐艦籍より除き同日更に特務艇と定む、同11年4月1日除籍。』〕。
== 艦歴 ==
1927年(昭和2年)4月26日、建造予定の一等駆逐艦4隻に、それぞれ「第36号駆逐艦(のちの白雪)」、「第38号(〃深雪)」、「第39号(〃叢雲)」、「第44号(〃浦波)」の艦名が与えられた〔#達昭和2年4月pp.45-46『達第五十三號 艦艇製造費ヲ以テ昭和元年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和二年四月二十六日 海軍大臣岡田啓介|横濱船渠株式會社ニ於テ建造 第三十六號驅逐艦』-『達第五十四號 艦艇製造費ヲ以テ昭和二年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等驅逐艦三隻ニ左ノ通命名ス|昭和二年四月二十六日 海軍大臣岡田啓介|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 第三十八號驅逐艦|藤永田造船所ニ於テ建造 第三十九驅逐艦|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 第四十四驅逐艦』〕。
「第39号駆逐艦」は藤永田造船所で、同年4月25日(正式命名の前日)起工〔#艦船要目公表範囲(1937年12月1日)p.4『叢雲|一等驅逐艦|(艦要目略)|藤永田造船所|昭和2-4-25|3-9-27|4-5-10|(兵装略)』〕。1928年(昭和3年)8月1日附で「第39号駆逐艦」は「叢雲」と改名された〔。同年9月27日進水、1929年(昭和4年)5月10日竣工〔。第二艦隊第二水雷戦隊・第12駆逐隊に編入。
1935年(昭和10年)4月、満州国愛新覚羅溥儀皇帝が戦艦「比叡」(当時艦長井上成美大佐)を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊(叢雲、薄雲、白雲)は御召艦「比叡」の供奉艦に指定された〔#満洲国皇帝御行動に関する件p.9『二.御召艦及供奉艦 御召艦 軍艦比叡 供奉艦 第十二駆逐隊(叢雲、薄雲、白雲)』〕。第12駆逐隊は「比叡」を護衛して日本と中国大陸を往復した。
同年9月26日、「叢雲」は三陸沖で演習中、台風により多数の艦が損傷する第四艦隊事件に遭遇する。当時、第四水雷戦隊旗艦「那珂」は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた〔#夕霧初雪遭難事件報告(1)p.3『航行隊形』/pp.42-45『別紙第三、主ナル被害損傷調』〕。「叢雲」も若干の損傷を受けたが、艦首切断に至った「初雪、夕霧」程ではなかった〔#夕霧初雪遭難事件報告(1)p.44『十二驅|叢雲|一.三番砲塔前部上甲板附近亀裂湾曲 二.第六兵員室「ビーム」三個所ニ屈曲 三.三番聯管全体持上リ各魚雷格納庫覆大破 四.内火艇一大破』〕。
1940年(昭和15年)、第12駆逐隊(司令河西虎三大佐:東雲、白雲、薄雲、叢雲)は第一艦隊・第三水雷戦隊に編入され、旗艦「川内」指揮下で訓練に従事した〔#波濤と流雲と青春と326頁〕。
7月以降、第二遣支艦隊(指揮官高須四郎中将:旗艦「鳥海」)に編入され、中国大陸へ進出〔#波濤と流雲と青春と327頁〕。日中戦争にともなう華中での沿岸作戦、北部仏印進駐作戦などに参加した〔#海軍三等士官167頁〕。だが「叢雲」と共に封鎖作戦に従事していた「薄雲」は、ホ田市の興化湾・南日水道で日本軍機雷に触雷して大破〔#海軍三等士官168頁〕。満潮時になるまで水道通過を見合わせていた「叢雲」は湾内に停泊しており〔士官室では山羊バーベキューをしていたという。〕、『お先に』の信号を残して単艦出港した「薄雲」が触雷する結果となった〔。「叢雲」は「薄雲」を台湾まで曳航〔#波濤と流雲と青春と328頁〕。その後「薄雲」は第12駆逐隊から除籍され、12駆は3隻編制になる。同湾に単艦停泊中の「叢雲」には現地の海賊が度々訪問しており、中杉(叢雲)艦長や士官が海賊の根拠地を視察するなどの交流があった〔占領統治にともなう宣撫工作のため。〕〔#海軍三等士官194-195頁『美人島探検』〕。11月3日、「叢雲」は封鎖任務と護衛任務を終えて呉に戻った〔#海軍三等士官202頁〕。
1941年(昭和16年)9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、第12駆逐隊(叢雲、東雲)は空母「蒼龍飛龍」と第二航空戦隊を編制予定であった〔#昭和17年度帝国海軍戦時編制・駆逐隊他p.1『呉|第十二驅逐隊|叢雲、東雲|(戦時編制ニ依ル所属)第二航空戦隊』〕〔#昭和17年度帝国海軍戦時編制p.5『艦隊|第一航空艦隊|第一航空戦隊/翔鶴、瑞鶴、第十一驅逐隊|第二航空戦隊/蒼龍・飛龍・第十二驅逐隊|第四航空戦隊/龍驤、《飛鷹》、《隼鷹》、第三驅逐隊|第五航空戦隊/赤城、加賀、第五十一驅逐隊|第六航空戦隊/《第三十一驅逐隊》/特設航空母艦三』〕。しかし太平洋戦争の勃発により、「吹雪」以下第12駆逐隊が同大戦で空母機動部隊に配属される事はなかった。「叢雲」艦長は東日出男少佐、先任士官は本多敏治大尉に変わった〔本多は、のちに南極観測船ふじ」艦長を務めた。〕。11月20日、桂島沖を出発して南方へ向かった〔#波濤と流雲と青春と254-255頁『第十二駆逐隊主計長(十六年七月~十七年三月)』〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「叢雲 (吹雪型駆逐艦)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Japanese destroyer Murakumo (1928) 」があります。




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