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第31回世界卓球選手権 : ミニ英和和英辞書
第31回世界卓球選手権[だい31かいせかいたっきゅうせんしゅけん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [かい]
 【名詞】 1. counter for occurrences 
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
世界 : [せかい]
 【名詞】 1. the world 2. society 3. the universe 
: [たく]
 【名詞】 1. table 2. desk 3. high 
卓球 : [たっきゅう]
 【名詞】 1. table tennis 2. ping-pong 
: [たま, きゅう]
 【名詞】 1. globe 2. sphere 3. ball
: [せん]
 【名詞】 1. (1) selection 2. choice 3. election 4. (2) compilation 5. editing 
選手 : [せんしゅ]
 【名詞】 1. (1) player (in game) 2. (2) team 
選手権 : [せんしゅけん]
 【名詞】 1. leading 2. top-rank 3. champion 
: [て]
 【名詞】 1. hand 
: [けん, ごん]
  1. (n,n-suf) authority 2. the right (to do something) 

第31回世界卓球選手権 : ウィキペディア日本語版
第31回世界卓球選手権[だい31かいせかいたっきゅうせんしゅけん]
第31回世界卓球選手権(だい31かいせかいたっきゅうせんしゅけん)は、1971年3月28日から4月7日まで日本の名古屋市愛知県体育館で開催された。
名古屋市は、1967年の第29回世界卓球選手権開催中に立候補を表明、1968年8月にフランスリヨンで行われた国際卓球連盟総会で本決まりになったが、1969年の第30回世界卓球選手権大会出発前に後藤鉀二日本卓球協会会長がいったんは開催返上を表明した。これには北朝鮮東ドイツの国名呼称や入国問題があった〔難問かかえた71年世界卓球 どうする国名呼称 妥協案にも双方が反発 読売新聞 1969年4月23日朝刊8ページ〕。また財政難と観客動員力から名古屋ではなく東京での開催の可能性もあった〔71年の大会「東京開催ほぼ確実」後藤会長、国際卓球連盟に報告 朝日新聞 1969年4月18日 朝刊13ページ〕。第30回世界卓球選手権開催中の1969年4月22日、ミュンヘン市内の商工会議所で行われた国際卓球連盟総会で全会一致で名古屋での開催が決定した〔日本開催、正式に決定 71年の世界卓球 読売新聞 1969年4月22日 夕刊10ページ〕。
== 中国の6年ぶりの参加 ==
1971年毛沢東が参加を承認したことから、1961年から1965年まで3大会連続で団体優勝し、1965年の第28回世界卓球選手権では個人団体7種目中、5種目で優勝した後、文化大革命以来2大会連続で不参加だった中国の卓球チームが6年ぶりに世界の舞台に立った。これは当時の日本卓球協会会長、アジア卓球連盟会長、愛知工業大学学長だった後藤鉀二が地元名古屋での大会を世界一のものとするべく西園寺公一日本中国文化交流協会常務理事らと協議し、二つの中国の問題解決に必要な処置(台湾をアジア卓球連盟から除名)を取ることを決断〔「台湾除き中国招く・名古屋で開く世界卓球後藤協会長が決意」毎日新聞 1970年12月31日〕、1971年1月下旬から2月にかけて、後藤と森武日本卓球協会理事、村岡久平日中文化交流協会事務局長が〔、直接中国に渡り周恩来と交渉を行なった結果であった〔。こうした動きに対して親台湾派の代議士・石井光次郎が会長を務める日本体育協会〔北京から届いた電報 ピンポン外交:4(スポーツひと半世紀) 朝日新聞 1995年1月28日23ページ〕や文部省からのクレーム、右翼からの脅迫などの反応が見られた〔。訪中した後藤は、アジア卓球連盟から台湾を排除するか、後藤がアジア卓球連盟会長を辞任すること、日本社会党が1958年に示した「日中の政治三原則」(中国を敵視する政策をとらない、二つの中国をつくる陰謀に加わらない、中日両国の国交正常化を妨害しない)という草案を提示、中国側の草案には台湾は中国の一つの省に過ぎないことや、蒋介石の名前が入っていたことから交渉は難航、最終的に周恩来の指示により、中国側が折れて2月1日に中国が参加する「会談紀要(覚書)」の調印がなされた。後藤は2月7日にシンガポールで行なわれたアジア卓球連盟総会でを「中国加入・台湾排除」(台湾は、14年前にランガ・ラマヌジャン会長時代に加盟した)を提案したが韓国マレーシアなどの反対にあい、会長を辞任した〔〔粘って4日、中国折れる ピンポン外交:5 (スポーツひと半世紀)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第31回世界卓球選手権」の詳細全文を読む




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