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稲田御坊 : ミニ英和和英辞書
稲田御坊[いなだ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いね]
 【名詞】 1. rice-plant 
稲田 : [いなだ]
 【名詞】 1. paddy field 2. rice field 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ご, お, おん, み]
  1. (pref) honourable 2. honorable 
御坊 : [ごぼう]
 (n) Reverend (used to priest, monk, etc.)

稲田御坊 ( リダイレクト:西念寺 (笠間市) ) : ウィキペディア日本語版
西念寺 (笠間市)[さいねんじ]

西念寺(さいねんじ)は、茨城県笠間市稲田にある仏教寺院浄土真宗別格本山単立寺院。浄土真宗の宗祖・親鸞はこの地で『教行信証』の製作を開始し草稿本を撰述したと伝えられる。浄土真宗立教開宗の聖地として、真宗門徒の崇敬を集めている。
== 概略 ==

=== 親鸞による東国布教 ===
建永2年2月28日1207年3月28日)、法然の吉水教団門下の親鸞は承元の法難により流罪となり、越後国国府に配流される。建暦元年(1211年)11月に赦免の宣旨が下る。赦免後も2年半ほど越後に留まる。建保2年(1214年)〔文献により滞在した時期・期間に諸説ある。建保2年(1214年)にまず「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び3年ほど滞在したとする説。建保4年(1216年)に「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだする説。「小島の草庵」を結んだ後に「稲田の草庵」に移ったとする説など。〕に常陸国稲田の領主であった稲田九郎頼重〔稲田九郎頼重 - 宇都宮頼綱の弟。〕の招きに応じて「吹雪谷」と呼ばれたこの地に草庵を結び、「稲田の草庵」と呼ばれる。62、3歳頃に、帰京する〔帰京の際に、弟子の善性に草庵を譲ったとする説があり、その後善性の子孫たちは、寺と共に稲田から信濃国を経て越後国に移転したとする。(浄興寺#異説を参照)〕〔「見返し橋」は、稲田の草案の近くを流れる小川にかかっている小さな橋である。親鸞が妻の恵信尼や子どもを遺して京都へ一人で帰ることになり旅立つが、思わずこの橋の上で別れを惜しむ家族を振り返ったと伝えられる。(今井雅晴『神と仏への祈りのこころ』105ページ、長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司『茨城県の歴史』山川出版社 2003年)〕。東国における布教は、約20年間に渡る。門弟たちの住所が、この草庵を中心とした30kmの同心円内にほぼ収まるため、稲田の地を拠点とし布教したと考えられる〔参考文献、今井雅晴『茨城と親鸞』P26。〕。親鸞にまつわる伝承が残される地域の範囲からも、常陸・下総下野の三ヶ国を中心に、広く関東から東北まで布教を行ったと考えられる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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