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呉竹 : ミニ英和和英辞書
呉竹[くれたけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ご]
 【名詞】 1. giving 2. doing (something) for 
: [たけ]
 【名詞】 1. bamboo 2. middle (of a three-tier ranking system) 

呉竹 : ウィキペディア日本語版
呉竹[くれたけ]

株式会社呉竹(くれたけ)は、日本の文具メーカー。以前の社名は呉竹精昇堂。本社は奈良市にあり、書道用の墨汁などで知られるメーカーである。他にペン、糊、便箋など紙製品を製造。
近年は、スクラップブッキングを始め、カリグラフィー水彩絵具などクラフト、アート用品も製造しており、アメリカや西欧など海外に幅広く事業展開している。
「呉竹」はもともとは墨汁の商品名。初代社長が学校選定の墨汁作りを熊谷高等女学校(現:埼玉県立熊谷女子高等学校)の書道教師と共同で行い、この学校の同窓会の名が「くれ竹会」だったことに由来する〔串間努『まぼろし小学校』1996年、小学館、ISBN-4093872015 P62。なお現在の熊谷女子高の同窓会は「さくら会」の名称となっている。〕。
== 歴史 ==

=== 製墨業者として創業 ===
創業者である綿谷奈良吉(1868年 - 1947年)は1877年(明治10年)頃から当時有名な製墨業者であった大森徳兵衛の店で墨職人として働き墨作りの技術を磨いた。その後午前4時半から正午まで大森の店で1日分の仕事をした後、自宅で自分の墨を作り他の墨屋の下請けで商品を納めるようになり、この資金をもとに、それまで三条通りの奥に住んでいた家を引き払い内侍原町1番地の藁葺きの家を買い、1902年(明治35年)10月1日に製墨業者として独立した〔三島1999年 p.36〕。
奈良吉の長男、綿谷楢太郎(1892年 - 1956年)は小学校3年生から家業を手伝い、墨の生産過程を習得し生産面の責任者となり、二男の仙二郎と四男の伍朗は高等小学校を卒業後に販売面を担当し近くの店を廻るようになる。奈良吉は妻コマのアイデアで東京の筆墨卸商平安堂の信用を得、平安堂ブランドの墨を大量に製造し多くの利益を上げることが出来た〔三島1999年 p.37〕。
奈良吉は自社ブランドで墨を販売するために1924年(大正13年)10月に合名会社精昇堂商会を設立。この名は奈良吉自身の命名で「精密な仕事で上昇する」という意味である。このころ精昇堂は全国の学校を訪問し墨を売り込んでいたが、1926年(大正15年)頃、埼玉県の熊谷高等女学校の同窓会「呉竹会」にその品質を認められたのが縁で、墨のブランドに「呉竹」という名を使うことを許された。それ以降「呉竹墨」が主流製品となり、1932年(昭和7年)8月に組織変更により株式会社精昇堂商会(資本金10万円)となり、1940年(昭和15年)6月に社名を株式会社呉竹精昇堂と改めた〔。
戦後、連合国軍最高司令官総司令部は日本の義務教育における書道の授業を禁止する布告を出す。戦争により衰退気味であった奈良の製墨業界は大きな打撃を受け、約50軒あった製墨業者の半数は転業した。悲観した楢太郎は兵役から戻ってきた2人の息子、綿谷安弘(1920年 - )、綿谷良孝(1923年 - )には家業を継がず他の仕事につくよう勧める。しかしその後、総司令部の方向転換により書道は自由選択科目として復活し文部省学習指導要領も改められると、1950年(昭和25年)頃から楢太郎も二人の弟や息子たちと事業を再開した〔三島1999年 pp.38 f〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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