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余璋王 : ミニ英和和英辞書
余璋王[よ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ]
  1. (n,suf) over 2. more than
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

余璋王 ( リダイレクト:武王 (百済) ) : ウィキペディア日本語版
武王 (百済)[ぶおう]

武王(ぶおう、580年? - 641年)は、百済の第30代の王(在位:600年 - 641年)。27代王の威徳王 の子。は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余璋の名で現れる。
最初、新羅高句麗と戦っていたが、煬帝の高句麗征伐(隋の高句麗遠征)に参加せず、二面外交を行い、高句麗と和解し、新羅を盛んに攻め立てた。
== 治世 ==
朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のためにの介入を求める動きが活発となっていた。武王は607年及び608年に、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出し、611年には隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ることを申し出た。しかしその陰では高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、612年に隋の高句麗遠征軍が発せられたときには、百済は隋の遠征軍に従軍はしなかった。一方で新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって争いが絶えず、602年8月に新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅真平王の派遣した騎兵隊の前に大敗を喫した。611年10月には(忠清北道槐山郡)を奪い、616年にも母山城(忠清北道鎮川郡)に攻め入った。618年には新羅に奪い返されているが、その後も同城周辺での小競り合いが続いた。
隋が滅びてが興ると621年に朝貢を果たし、624年に〈帯方郡王・百済王〉に冊封されている。その後626年に高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。627年には新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求めたが、武王は甥の鬼室福信を唐に送って勅を受け、表面的には勅に従う素振りを見せたものの、新羅との争いはやまなかった。
先代の法王が建立を開始した王興寺忠清南道扶余郡)を634年に完成させ、また弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した。
在位42年にして641年3月に死去し、武とされた。この後に使者を派遣して唐に報告したところ、太宗は哭泣の儀礼を以て悼み、武王には〈光禄大夫〉の爵号が追贈された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「武王 (百済)」の詳細全文を読む




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